社会人になって、今年で11年目になる。そんな僕だが今、明らかに過去一番、最も追い詰められている。そんな実感だけは確かにある。
とはいえ、別に思い詰めているわけではない。ただ、塾講師としての僕に関して、急に”締め切りがパチンと設けられたような状態”にある、と言っていい。

蛇に睨まれた蛙のようなもので、あまりにも巨大な敵や脅威を目の前にすると、人は本当に思考含めて一度固まってしまい、全てが停止するということをはっきりと感じた。
・・・仮にこれが「本当に追い詰められた状態」だとするならば、過去に自分が「追い詰められた」と感じていた経験は、ぬるま湯にも程があるということになる。
人生で本当に追い詰められる状況というのは、普通の人間はそうそう経験しない。これは今、現在進行形で学んでいることのひとつだ。
自分の冷静さを保つためにも、頭の中、胸の内にあることは全て書き出して記録し続けていきたい。だから今日も、こうして記事を書いていこうと思う。
修羅場を観察する。

今感じている「追い詰められ」を細かく紐解くと、ある意味僕の肩に全てが乗った、極端な不確定性の中にいるということだ。
これが本当に「進退窮まった状態」なのか、それともそう見えているだけで他にもまだやれることがあるのか、それは現在地からではわからない。
修羅場体験自体は、たとえば藤田晋氏の『渋谷ではたらく社長の告白』のような本で読むたび、「苦しそうだけど、どこか充実していて、羨ましい」と呑気に思っていた。
しかし、いざ自分がそれに近い場所に身を置くと、まったく楽しむ余裕などない。文字通り、下から迫ってくる火で炙られているような感覚に近い。
・・・にもかかわらず、自分はどこかでユーモアをもって、現状を考えているところがある。あるいは、シンプルにアホなのかもしれない。
実際、この話を書きながら、同時に「下から燃えるロープが迫ってくるステージって、スーパードンキーコング3にあったよな」と思い出したりもしている。
あのゲームのステージは確かに難易度が高く、障害物が降ってくる中で進まないといけない。ただ、だからこそ攻略そのものに熱中できたし、高揚感もあった。
それゆえに強く、記憶に残っている。今の修羅場も考え方によっては、そういうステージのようなものなのかもしれない。
ちなみに、その修羅場をコンプラの限界を超えない程度に極めて単純に言えば「3か月後にある人数とある数値を達成できなければ、年度末で退職する」という話である。
逆に達成できた場合は、また更に別の2つの選択肢が待っている。ただ、どちらを選ぶかはまだ決めていない。
現状は、経済的に「生きるか死ぬか」の二択だ。もちろん生物本来の本能として、僕は死にたくないのだが、それを避けるには庇護を待つのではなく、つまり行動しかない。
この記事の基となる話を吹き込んでいる今現在も、定時の3時間前に職場へ向かっているくらいに、気が急いて仕方がない。
とはいえ、理性を失うほど狼狽しているわけでもない。単純に「時間を作ること」のモチベーションが高まっているだけだ。
このモチベーションを冷静に、効果的に、キチンと活かせれば、修羅場という言葉とは裏腹に、僕は案外平気で脱出できるかもしれないと信じている。
ただし、ほんのわずかでも緊張の糸に油断が生じれば、一気に足をすくわれるとも感じている。だからこそ、「油断ならない」というのが僕の現在地だ。
むしろ、自分を追い詰めきるくらいでちょうどいい。そのくらいの気持ちでいなければならない。僕にはまだ、負荷が足りないのではないか、とさえ思う。
以前「校舎の存在そのものに対する責任を負っている」と言ったが、あの時の僕には覚悟がまるで足りていなかった。本当に、甘かった。
その結果がこの未来を招いたのだと思う。だからこそ「どうしよう」では済まされない。それもあって、「じゃあ引き締めて取り返そう」という反骨心がある。
必ず達成してみせる。仮に叶わず、引くことになったとしても、せめて潔く、あと腐れなく立ち去りたい。今はそういう覚悟を持っている。
寝不足気味で変なテンションだが、むしろ思考の回転は調子がいい。そのおかげで今日も仕事にはなりそうだ。ということで、今回はこの辺で。