精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

夢とやらの、脆さと儚さといい加減さを知った一幕。

今日は少しセンチメンタルな話を書いておこうと思う。なんというか、「夢」というのはやたら高尚な癖に、本当にデリケートだなと・・そう思うことがあったのだ。

 

何があったかというと、僕が長年見続けてきた、生き物系の経営YouTuberが一人いるのだが、その人が昨日、タイトルを見ただけでゾッとするような動画を投稿していた。

 

平たく言えば、それは謝罪動画だった。内容を簡単にまとめると、何かしらの不祥事、もとい本人曰く「自分を信じてくれた人を深く傷つけるようなことをした」らしい。

 

具体的な中身には触れていなかったが、そうした話を踏まえた上で、イベント活動の休止、自身が運営する施設からの一時的な離脱など、”その後”を淡々と語っていた。


僕にとって、それはかなり衝撃的な動画だった。もちろん、当事者間に何があったのかは全く知らない。活動休止という判断も本人が選んだ手間、それはそれでいいと思う。

 

ただ、僕にとっては単に「日々の楽しみが一つ減った」といった浅い話では済まされない、結構強烈な喪失感があった。

 

以下それに触れながら、つらつらとまとめていきたいと思う。

 

 

夢は儚い。叶ったと思ったら奪われるのが真理なのか?

 

僕はその人が、自分の夢をひたすら形にする様子をずっと視聴してきた。あんなに大人が一生懸命、自分の夢を追いかけ、苦労を笑顔で語るなんて、とても新鮮だった。

 

そして長年の努力の果て、その夢はついに形となり、彼が夢をさらに広く深く展開していこうという矢先に起きたのが、今回の突然の「謝罪と活動休止」なのである。

 

・・・あんなに純粋に夢を追い、そのために身を削り、苦労し、と同時にその背中で人を惹きつけ、協力も得てそれを形にしたのに、ここまで突然”奪われるのか”と

 

もちろん、その人が何をしたか僕は知らないし、事の重大さもわからない。だが、やはり、どうしてもやるせない気持ちになる。


過去の動画を振り返ると、その努力の凄まじさが感じられる。そこに込めた想いも、彼は何度も口にしていた。名誉などを超越した、純粋に叶えたい夢だったのだろう、と。

 

そしてそれが叶い、好きなことで生きていけるようになったように見えたのに、たった一つの出来事でそれが崩れる可能性があるのだとしたら……。

 

もちろん、すべてが「おじゃん」になったとは限らない。今後、再起する可能性はある。そして僕は、しっかりと禊を済ませた彼が、表舞台に戻ってくる日を待ちたい。


しかし同時に、改めて思い知らされた。やはり、「楽しく働きたい」と願うだけでは甘いのだと。真の意味の楽しさを追求し、それに生きるには、覚悟が要ると悟った。

 

社会から求められるシビアな条件を、きちんとクリアしなければならない。それがない企業は、会社は、塾は、存在する意味も価値も無いのだ。


できることを通じて社会にキッチリと貢献し、価値を提供することで責任を果たす。そのうえで初めて、「好きなこと」で生活するための糧や土台が得られるのだろう、と。


そこから目を逸らしていると、いざというときにあまりにも脆い。だからこそ、どれだけ順調に見えても、夢というヤツは一瞬で崩れ去るリスクを常に内包するものなのだ。

 

だからこそ、したいことを「やる」と決めるなら、自分が引き受けている責任について、もっと自覚的でいなければならない


そうでなければ、いつなんどき、すべてを失うかわからない。いや、そこまで大げさかは分からないが、僕自身はそう感じてしまった。

 

夢は尊い。だが同時に儚い。一つの夢を追いかける人生は、果たしてスケールが大きいのか、小さいのかを含めて、僕は色々わからなくなってしまった。

 

―ということで今日はこの辺で。

 

 

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