物事を広く考える、といった意味の言葉を調べていると、よく「見」という漢字、あるいはそれを含む字がちょこちょこ用いられているのに気が付く。
例えば客観視、視野、観察などなど。昔の人は、それらの行為・意識の在り方を、「頭」や「心」ではなく、「見る」こととして考えていたのはなかなか興味深く思う。
jukukoshinohibi.hatenadiary.com
となれば、「見」自体の意味は何なのか。調べてみて驚いたが、その意味は非常に多岐にわたっていた。
①「みる」
ア:「目で事物の存在などをとらえる」
イ:「役目として取り扱う」(例:子供の面倒を見る)
ウ:「調べる」、「確かめる」
エ:「見分ける(区別する)」
オ:「試す(実際にやってみて、結果を確かめる)」
カ:「判断する」
キ:「占う」
ク:「評価する」
ケ:「読んで知る」
コ:「目で事物をとらえて、知識を深める」(例:見学)
サ:「経験する」(例:痛い目にあう)
シ:「理解する」
ス:「夫婦になる」
セ:「考える」
ソ:「思う」
②「みえる」
ア:「目で事物の存在などをとらえる事ができる」
イ:「そのように感じられる」
ウ:「見つかる(発見される)」
エ:「来るの尊敬語。おいでになる。いらっしゃる。」
オ:「人に会う」
カ:「結婚する」
③「見方」、「みる所」
④「考え」、「思い」
少し哲学的な話になるが、何かを「見る」ためには、「見られる存在」はもちろん、「見ている存在」も必要になるといえる。
例えば目の前の出来事に思考も感情も”囚われている”ときは、それを冷静に見る余裕などありはしない。「見る」ためには、主体と客体の間に、ある程度の距離が要るのだ。
その距離の取り方は、実は人によって最適解が異なると思う。興味や好奇心なのか、それとも意識的な俯瞰なのか、あるいは仏教みたいな切り離し的意識なのか。
著者はその距離を遊び心で取っているように僕は思う。だから対象を「きちんと見れている」気がする。バイアスも取り除いてありのままを見て、疑問をぶつけては調べる。
「人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」というチャップリンの言葉を不思議と思い出した。僕もまた、苦境だろうがその思いは忘れたくないように思う。
では以下、本題に入っていこう。
- 7月7日(月) チェーン・メール。
- 7月8日(火) 仮説➡検証➡観察➡仮説・・
- 7月9日(水) 「知る」力。
- 7月10日(木) この世には物語以外存在しないかもしれない。
- 7月11日(金) 「インチキ!」というコメントは、ただの・・・。
- 7月12日(土) 「インチキ」の始まりは純粋なあの気持ち説。
- 7月13日(日) 「ダメ」ということ自体が問題説。
7月7日(月) チェーン・メール。

郵便局の消印がない郵便物は、局員の怠慢なのだろうか。実をいうと他の可能性を疑った方がいい、と言われる。
例えば丁寧な封筒の中に、何かしらの請求書が入っているときを考えたい。それが身に覚えのないものであれば無視が正解だが、”あったら”、もっと怖い話が待っている。
それは債権者側に自分の居所がバレていることを意味するからだ。郵便局を経なくても、家に直接いつでも来れる状態―。そんな状態で未納を続ける勇気はない。
物事一つとってもここまで見え方が変わるのかと、静かに僕は感動している。
7月8日(火) 仮説➡検証➡観察➡仮説・・

世の中の様々な事象に対して「なんでだろう?」と思う。これ自体はすごく簡単そうだが、実は結構取り扱いに注意がいる。
例えば「なぜあのバス停は人が少ないんだろう」と考えたとして、手持ちの武器(情報や数式)が少ないと、頓珍漢な答えを考えがちだ。
それもまた次の仮説を考えるにおいて強力かつ効果的なフックになるのだが、問題はそこで探求を止めた際に起こる。
思いて学ばざれば……と老子も指摘したが、僕も同じような凝り固まりにならないか、危惧している。
7月9日(水) 「知る」力。

同調圧力や群集心理は、強力のみならず、知覚自体がとても難しいという特性がある。
しかしこれを解除し、より俯瞰した行動を取れるようになる方法自体は簡単だ。それは同調圧力や群集心理を学ぶことである。
そういうバイアスがあると知っておくだけで、脳が無意識に採用している認知を打ち破ることも可能になる。「知る」の力をまたひとつ学べた気がしている。
7月10日(木) この世には物語以外存在しないかもしれない。

実話を基にした話は、ドキュメンタリーとして括られる。しかしそれと小説との境目は、とても曖昧だ。
例えば僕は司馬遼太郎の作品が好きなのだが、あれらは史実そのものではなく、エンタメとして割り引いて、読書している。
それは個人的なストーリーも同じだ。一人一人の記憶が完璧な保証もないし、当時の感情が記録されていることも稀有だ。
ある意味究極的な実話なんて無いのかもしれないと、そんなことをふと思わされた。
7月11日(金) 「インチキ!」というコメントは、ただの・・・。

時折、トクをすることを「インチキ!」と呼ぶ人がいる。そういう人を見ると僕は、どうにも胃袋が酸っぱくなる。
例えば節税。経費で落ちる項目を調べて守り、手続きによって控除額を増やし、削れるものを削っていく。
これは合法だし、むしろこれができない人は、経営者どころかリーダーそのものに全く向いてないだろう。
むやみやたらにトクを否定しない。これはすごく大切な心構えだと思う。
7月12日(土) 「インチキ」の始まりは純粋なあの気持ち説。

ルールの際を攻め続けた結果、インチキに手を出したとして、それは向上心の一環なのだろうか。
というより、向上心とインチキは、実は紙一重の物なのではないか。そんな風にも思う。
例えば良いバットを職人に依頼するとか、スパイクを特注するとか、よりよいコーチに指導を頼むとか、これらは努力だと僕も思う。
ただしこれを格差や不平等だと言う人もいる。正直それについては、共感ではなく「甘さ」を僕は感じるのだが……
7月13日(日) 「ダメ」ということ自体が問題説。

インチキが横行しているからこそ、いっそ認めてしまう。早急を「そうきゅう」にしてもいいと認めた流れに似たことは、たまに見かける。
例えばアメリカ一部地域はマリファナが合法なのだが、それは取り締まりを徹底する方が社会的コストが高くつくから、らしい。
同じような流れはスポーツでも起きており、例えばドーピングが問題なのか、ドーピングを問題にしていることが問題なのか、色々取りざたされている。
努力と向上のダークサイドみたいな話、色々と気がかりだ。
では今日はこの辺で。