精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

今こそ理解し対処したい、「瞋(しん)」という毒。

最近、イライラすることが増えた。これ自体は闘争心の裏返しとも取れるのだが、よく考えると、その感情はイライラで括るにはあまりにも複雑な気もしている。

 

今自分が感じているのが怒りだとするのなら、僕は今、守りたい何かを攻撃されているということになる。しかし正直、そんな構図になっていないことの方が圧倒的に多い。

 

どちらかといえば、今はシンプルに不快だとか、いうなれば悲しみを覚えているとか、そういう風に、イライラと混同しそうになる別々の負の感情を同時に覚えているのだ。

 

こういう複合的なものに対処するには、どんなフレームワークが有効なのか。それが見えない。だがこういうときは大体、古典にヒントを求めれば外さないものだ。

 

そう思って仏教哲学の教えにこれに関するものが無いか探してみたら、すぐに見つけることができた。面白いことにそれは、過去の僕もじっくり調べたはずのことであった。

 

そのはずなのに、今回改めて学ぶと、深いことが新たに理解できて、気づけば先の負の感情もかなり軽減されたのを実感している

 

今日はそんな新しい気付きや学びを起点としたお話を、以下つらつらと書いていく。

 

 

「瞋(しん)」という毒を理解する。

三毒とは | やすらか庵

 

今回役に立ったのは、仏教哲学における三毒の話だ。その中にある「瞋(しん)」という概念が、今僕が抱えているもやもやの理解に一番つながったと感じている。

 

そもそも「瞋」とは何かというのを僕なりの乱暴な解釈で書くと、「不安や怒り、嫌悪といった負の感情の総称」という風になる。

 

これら一つ一つを独立させず、ベン図が重なり合った部分みたいなところも認めつつ、さらに広い括りとして「瞋」とラベリングし、定義する。

 

そして仏教哲学では、この「瞋」が”他人に対して向けられた際”、人間関係を崩壊させるなど、その人にとって心身の毒となると説かれていた

 

だからか、それを防ぐための話も、まずは瞋の状態そのものをしっかりと認識することから始まっていることが多かった。

 

だから僕も試してみた。実際今日、強く「瞋」を感じる出来事として、些末な話なのだが「しょうもない盗難」に遭った。

 

校舎の外に出していた配布物ラックの資材が曲がらないように、透明な下敷きを100均で買って入れておいたところ、3つあったそれが全て消えていたのだ

 

僕は正直瞬間的に「イラっとした」”と思った”のだが、本当にその解釈は正しいのか、我ながら気になった。そしてよくよく考えると、嫌悪の方が感覚として強そうと判った。

 

「嫌なことをされた」というより、「不愉快なものを見せつけられた」という印象の方が強い。というより、ラック内の透明な板を持って帰るなんて、理解に苦しむ

 

この”理解に苦しむ”という感想は自分にとって結構なキーポイントで、例えば店員に横柄なアホも、道端にごみを平気で捨てるバカも、むかつくというより”理解に苦しむ。”

 

だから解像度が上がる。僕にとっての「瞋」は、「理解に苦しむ存在・出来事に遭遇した際に抱く不快感のこと」のようだ。その中には不安・苛立ちの成分はほとんど無い。

 

こうして言語化し、解釈を変えられただけでもかなり上手くいった方だと思うのだが、仏教哲学はここから先のアドバイスも用意してくれていた。次はそれを紹介する。

 

「瞋(しん)」を見つめ、手放す。

 

瞋に限った話ではないが、観察とは一度で終わりというものではなく、何かがわかってもそれを手放し、意識的な距離を取ってまた行うという風に、ループするものだ。

 

実際、先ほどの暫定解「理解に苦しむ存在・出来事に遭遇した際に抱く不快感のこと」というのは、観察と問いを何度も回している内にたどり着いたものである。

 

自分は苛立っている?いや、不快感を覚えているようだ。過去のどの経験に似ている?アンチコメントを見た際の感情に似ている。こんな風にグルグルと回す。

 

すると段々、瞋の感情自体が、自分の意識に憑依している状態から、いわば意識の中で観察される対象という風に俯瞰することが可能となる

 

こうやって距離を取ってしまうと、観察の終わりではなく、不思議と満足や飽きが段々と湧いてくるものだ。その際はすかさず、瞋自体を「赦す」のが大切らしいのだ。

 

ところでなぜ、「許す」ではなく「赦す」のだろうか。どうしてこちらの漢字を充てるのか、純粋に疑問を持った。そして調べて、僕も思わず「なるほど!」と思った。

 

「許す」とは未来の行為などに向けたもので、「赦す」とは過去に向けたものという意味があるという。実際、許可とはこれからすることに出すものというイメージがある

 

瞋を抱いたこと自体は、もう仕方がない。だから、抱いたこと自体を「赦してしまう」。過去に囚われず、視点をまた現在に向ける。すごく深い話である。

 

終わりに:瞋さえ、好奇心をもって観察してしまえ!

 

―最後に「瞋」について、僕の心に最も刺さった解釈を紹介する。

 

瞋とは、自分の都合・思い通りに、状況や他者が応えてくれなかった際に生じる負の感情の総体

 

これを知ったとき、「うっ!」と思ってしまった。理想というものへの執着が今の自分にも強く残っていることがわかり、結構な恥ずかしさを覚えている。

 

とはいえこれを己のうちに秘められている間はまだマシなのだそうだ。しかしこれを他者にぶつけたときに何が始まるかというと・・人間関係の崩壊と不幸への転落だろう。

 

瞋に支配された人間と、好き好んで付き合う人間などいない。それは僕であっても同じことだ。そんな七面倒な人間など、相手にするだけ時間の無駄だ。

 

―この一連の思索を今後に生かすなら、やはり「僕はまだ期待を手放せていない」と”気づき”、そのうえで自分の心と周りの今を観察すべき、なのだろう

 

今はとてつもなくスッキリしている。瞋、解毒完了だ。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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