「私とは何か」という本を読んで【分人主義】という考え方を学んで以降、「確固たる真の自分」なんてものは無いという納得感がずっと続いている。
肉親の前の僕も、友人の前の僕も、仕事場の僕も、趣味の釣りに興じているときの僕も、全ては”僕”を構成する要素の一つ一つであり、そこに優劣は無いのだ、と。
そういうことを信じていながら、最近まで盲点だったことがある。それは、対外的にどの分人を見せていくかという部分に、僕自身がまるで無関心であるというものだ。
自分という人間を開けっぴろげにすることが、いわゆる「ネタバレ」になるし、「ファンコミュニティの構築」になるんだから、全部曝け出しておけばいいじゃん、と。
しかし最近、このスタンスこそが僕の理念と衝突しているような気がしてならない。だから今日は、そんな違和感を棚卸しして、気持ちの整理をちょっとつけたいと思う。
僕が目指す像から乖離した僕を見せない。
マウントに聞こえたら申し訳ないが、僕は以下の経験・資格を持っている。
県立高校出身、高2で独学で初級システムアドミニストレータに合格、地方国公立経済学部に合格、入学直後のTOEICは715点、英検準1級初受験・初合格、英検1級合格
その一方、過去以下のようなやらかしもしてしまっている。
中学生の頃に内申点で【2】を5個付けられる、漢検2級に落ちる、経済学部ならまず取得する簿記3級を取らないまま卒業、センター試験の数学は96点/200点・・・・
もちろんギャップとしてお互いが補完関係になるような気はするが、前者を全面に出すと、すごくお高い、ラグジュアリーな塾であるというメタが出るだろう。
とはいえ後者を全面に出すなら、「こんな奴がやってる校舎とか絶対ヤバいだろ」と思われて当然という自覚もある。
これらをうまくミックスし、潜在顧客に一番響く僕の分人を言語化し、プロデュースする。僕が無頓着であり続けたのはこの部分なのだと最近思い至っている。
例えば、僕の塾の顧客層は、現状のテストの合計点数が平均より下で、そこから自己ベストを出していきたい、という生徒たちである。
最初から高い点を取れる子たちは、そういう人が集まる大手塾があるのでそっちに行けばいいと思っている。それ自体はゆるぎない信念だと言ってもいい。
―ならば、そういう信念を示すためという目的においては、「英検準1級が人生初の英検受検で一発合格」とか、「独学で英検1級合格」は、あまりにも乖離している気がする。
実際近隣に僕と似たステータスの塾長さんが一人で運営している校舎があり、「中学5科目指導!」という謳い文句を出しているが、どこかギャップを僕は感じている。
その辺りを色濃く押すなら、200点台前半から入塾した子が300点台を超えたことを称える掲示物を作る、実績を出す、そういった施策の方がずっとスマートだ。
あるいは、僕自身が文系国公立の出身であることから、8科目程度の科目を手広く学習し、判定を高めるコツを体得しているという話をした方が響くかもしれない。
僕自身の箔をしゃにむに高めてしまうと、僕が本当に力になりたい学力・顧客層は離れていってしまう。この構造、もっと早く思い至るべきだった。
実際、教育相談などの面談をしていても、確かに僕の持っている資格のウケは悪いなと思っていた。なんというか、「へー」で済まされることが多い。
そのうち僕は、自分がそういう資格を有していることを、段々言わなくなっていった。なんというか、言ってトクしないなら言わない方がマシだからだ。
これは人から指摘されて気づいたが、そもそも資格保持であることを知っている人はすごく少ないのだそうだ。数年通っている生徒さえ知らず、驚いたことさえある。
だがこの違和感は正しかったのだろう。これを喧伝することは、本来追うべきターゲットを遠ざけるからだ。それよりはむしろ、堅実な学歴を押す方がいいかもしれない。
もちろん大手塾の塾長は「そんな学歴でププ」と言ってくるだろうが、仮にそうならわかりやすい悪役ムーヴ過ぎて逆に感謝である。
何なら近隣においては、自身の能力・経歴が高いこと・秀でていることに強いプライドを持っており、学力が低い子の自尊心をバキバキに折る教室長がいるとも聞いている。
僕”は”血が通っているというメッセージを伝える手段の一つとしても、自分の「ステータスとしてそうでもない部分」をもっと見せる方がいいのかなと、そう思っている。
英検といった資格は、求められたら出せばいいだけなのだ。僕の強みは、実は配るカードの組み合わせによってコントローラブルである。
すごくいい学びに気づけた。正直、誇張でもなく心が躍っている。
では今日はこの辺で。