今日は、”僕が完全に諦めてしまったこと”について書いてみたい。というのも最近、修羅場にいるはずなのに、そうであることを自覚するのが困難になってきている。
定時の2時間前、3時間前に出社するのはもはや当たり前になったし、無茶なことを言われても、もう感情が反応しなくなってきている。

心が研ぎ澄まされているのか、あるいは単純に疲弊して感情が鈍化しているのか─その境目も曖昧で、どちらとも言えない不思議な状態にいる。
そんな状態でしばらく過ごすうち、僕が最近、完全に諦めてしまったことがひとつある。それは「誰かがなんとかしてくれるだろう」という期待だ。
今日はそんな諦観を、以下つらつらと言葉にしてみる。
貧乏くじを自分から引きに行く。

ここ最近、難題に対して誰かが手を挙げてくれるのを待つことや、誰かが重い役割を代わってくれるのを期待することが、もう死ぬほど面倒になってしまった。
今の僕は貧乏くじを真っ先に引くタイプだ。昔はそれを「責任感が強いことのダークサイト」と感じていたが、単にその方が早いからそうしていると、最近気づいた。
「話が進まないのは、誰もやりたがらないからだな。だったら俺がやる」とすぐに思ってしまう。チンタラされることで割を食うのは僕もその一人という事情もある。
こういう考え方や行動について、人から同情されようとは微塵も思わないし、「手伝おうか?」と言われるのを待つことも完全に無くなった。
もちろんすべてを抱え込むという意味ではなく、必要なら自分からとっとと「今こういう状況なので、手を貸してほしい」と言うようになっただけでもある。
要するに、以前のように受け身で待つ姿勢は、大部分が自分の中から消えたという話だ。何か問題が起きれば、自分が真っ先に出て謝り、処理し、振り分ける。
とにかく、状況の好転を待つという行為そのものが、もはや時間の無駄だと思うようになったのだ。そんな神頼みをしている間に、採れる選択肢は減り続けるだろう。
もちろん、待つことで有利に働く可能性があると論理的に判断できる状況なら、僕も待つ。ただし、そうではないと判断したときには、すぐに状況を動かす。
乱暴な比喩だが、判断ひとつで、1500円程度の利益の増減が起きるような選択が1日に10回以上あると思っている。外せば減り、当てれば増えるゲームを繰り返すのだ。
最悪手を取り続ければ15,000円損するが、うまく好手を取り続ければ15,000円のトクに繋がる。体感だが、”待つ”ことの勝率は5%も無いと僕は感じている。
つまり、待てば待つほど損はほぼ確定するし、しかもそれを30日続けたらどうなるか、想像に難くないだけにゾッとする。
後々振り返って、「あれは本当に無駄な時間だった、悪手だった」と感じるときの大半は、「誰かが助けてくれるかも」と期待してしまった場面である。
やはり、そんな都合の良い助けは来ない。それはもはや白馬の王子さまと同じで、「いそうだけど存在しない」と断言してもいい。
最近では、そうした“ラッキーパンチ”、つまり都合のいい奇跡が起こるという前提を、完全に捨てている。なんなら、生理的嫌悪になりつつあると言ってもいいくらいだ。
仕事をしていると、いわゆる“ラッキーな出来事”はゼロではない。たまには起こる。そのときは運が良かったと喜べばいいのに、実際、僕は最近、全然喜べない。
むしろ、「今じゃないだろ」「何でここで起きるんだ、調子が狂うな」という、ネガティブな感情が湧いてきてしまった。
つまり、奇跡的な出来事すら「余計なお世話」に感じてしまう。小人が助けに来てくれるようなミラクルも、今の僕にとってはただのノイズになってしまっているようだ。
それほどまでに、自分が”仕上がってきている”のだと前向きに捉えることにする。もっとも、それが良いことなのか悪いことなのかはわからないのだが。
ただ、少なくとも「誰かが何とかしてくれる」という幻想を諦めたことは、ある種の成長には違いないだろう。それは、秀でた方から出ないセリフだからだ。
ということで、今日はこの辺で。