精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

心が強くなるメカニズムが判った。─「気持ち悪さ」から学んだこと。

今日は「心が強くなるプロセスが分かった」という話をしてみたい。これは昨日あった出来事に起因しているが、まだ気持ち的には静まりきっていないことを承知頂きたし。

 

昨日、非常に理不尽な電話を受けた。最初は、こちら側の落ち度によるクレームかと思い、すごく真摯に耳を傾けるよう努めた。

 

しかし、話をずっと聞いた結果、何を言っているか全く理解できなかった。日本語でやり取りしているはずなのに、まるで言語が通じていないかのような感覚だった。

 

内容をかいつまんで説明すれば、こちらが一度も「保証する」と言っていないサービスが保証されていないことに関して「納得できない!」というものだった。

 

いうなれば、大学受験の勉強をするために英会話の塾に入塾したら、半年後になって全く受験勉強を教えてくれていないことに気づき、憤っているという構図に近い。

 

正直、自分で書いていながら、何を言っているのか全く分からない。そのため途中から、意味のある言語として、相手の言葉を聞くのを完全にやめた。

 

そんなやり取りが終わって数十分したら、再び電話を掛けてきて「お宅のやっていることはおかしい」とだけ言って僕の返事を待たず一方的に切られた。

 

実に、不可解なやり取りだった。このやり取りを経て僕はどんな感情になったか?心が抉られるような痛みを覚えたか?それについては、明確に否定しておこう。

 

そのうえで以下、本当は何を思い、そこから何を学んだか、何とか言葉にして消化しておきたいと思う。

 

 

「鈍色のギトギトした餅が臓腑から込み上げてきて食道に詰まっている感じ」

 

今の僕の心情を一言で言うなら、ひたすらに「気持ちが悪い」これは感情的なものだけでなく、身体的な不快感も含む。罪悪感も羞恥心も、そこには一切ない。

 

ただひたすら気持ちが悪いのだ。僕のように、何かあればすぐに自分の非を探すタイプの人間ですら、「あれは完全に自分のせいではない」と納得できるほど理不尽だった。

 

ただ、こうした極端な不快体験の中にも、学びの種はあるから面白い。実際、今回ふと、「心が強くなるとはこういうことかもしれない」という手応えを得たのだ。

 

心を強くするための鍛錬としては、例えば瞑想のような精神修行が真っ先に挙げられることだと思う。それ自体は僕も効果を体感している手前、否定はしない。

 

ただ、今回の僕の経験から言えば、「圧倒的に不快な刺激にさらされたとき」の方が、得られる経験値が比べるまでもなく多いと思っている

 

怒られて落ち込んだり、自責の念に駆られるといった種類の体験ではない。もっと生理的な、説明のつかないレベルの「気持ち悪さ」に触れることこそが鍵なのだ、と

 

ではなぜ、そうした不快な体験が、自分の格を高めてくれるのか。それは、自分の中の様々な基準が、いい意味で大きく下がるからだと思っている。

 

例えば、それまで「嫌だ」と感じていた人や出来事が、この一件を経てからというもの、むしろラクなイベントに思えてくる。

 

「話が通じるだけありがたい」「説明が伝わるだけとても嬉しい」といった気持ちが、皮肉でもなんでもなく、自然と湧いてくるのだ。

 

実際昨日以降、生徒たちが話を聞いてくれて、問題を解いてくれるだけで、とてつもない感動を覚えるようになった

 

「ありがとう」という感情が素直に湧いてくる。今はとにかく、生徒たちにもっと良い授業を届けたいという思いが強まっている

 

本意ではないものの、嫌悪感のリミッターが一段階下げられたことで、ほとんどのことが「あのときよりマシ」に感じる。これはまさに、心が鍛えられた証なのだろう。

 

・・・この経験を「成長」と呼ぶか、「疲弊による鈍化」と捉えるかは、人によるだろう。ただ、自分の中では確かに器が広がった感覚がある

 

魂は地獄で磨かれるという言葉があるが、どこか楽しさや充足感を覚える今の「修羅場」では、さほど心は鍛えられていない、ということがようやく腑に落ちた。

 

昨日の体験は、まるで充実感も成長感もない、ただただ気持ち悪いだけの時間だった。しかし、そのどん底があったからこそ、日常のありがたさを再認識できた

 

いわばメタルキングを倒したときのような成長を僕は果たしたわけだが、それと引き換えに結構なダメージを負ってしまったということは否めない。

 

繰り返すが、これは別に、その人の言動で僕の心が痛んだわけではない。あまりにも不快なものに触れた結果、感情が過度に浪費されたことの反動だ。

 

例えばハエトリグモを見ることさえ無理な人が、自分の肩に巨大なジョロウグモが乗っていたのを発見した際、どれだけ神経が磨り減るだろうか?

 

そしてその後、「自分はジョロウグモに心を傷つけられた」と思うだろうか?・・構造としては、僕もそれと全く同じだ。

 

生理的嫌悪の対象とゼロ距離で接すること。これは心を鍛えることにおける劇薬に違いは無いが、できれば年に数発くらいにしてほしいほどの破壊力を持っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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