僕が最近特に気を付けていることがある。それは「筋を通しているかどうか」である。ここだけならば堅気ではない感じがするが、とはいえ大事な考え方だと思っている。
例えば小さなことでも約束したことは必ず守る。相手に対して失礼になる物言いはしない。心を傷つけうる言動は慎む。非があれば誤り、褒められれば謙遜する。

―僕はもともと、こういう人間関係における貸し借りには非常に意識が向く方だと自負している。果たせない約束はずっと引きずるし、過去の失態は永遠に消えない。
自分勝手に振舞った結果で何人傷つけてしまったか。それを思い返すたびに死にたくなる。自分の寿命が思った以上に長いことを、どこか呪う気持ちさえ出てくるほどに。
しかしながら、この痛みに関しては、なんだかんだで人間的に成熟した結果、あるいは改善の途上に居ることによる成長痛だと思って、あまりネガティブには捉えていない。
むしろ痛みを知っても「そんなもんか」という思いがあるからこそ、積極的に貧乏くじを引いてでも不義理はしないという信念をより、徹底して貫けているとさえ思う。
今日はそんな、「不義理」について思うことを、つらつらと書いてみる次第である。
真面目に生きちゃ馬鹿を見る、でもいい。
古い方のおそ松くんのテーマソングが、頭の中を流れている。特に「真面目に生きちゃ馬鹿を見る」の部分が、ずっとリフレインしている。
正直、先述の通りの価値観で行動していると、貧乏くじを自ら引いたり、結果として引かされたり、そんなことはとても多い。他人の不義理にダメージを負うこともある。
実際、新規問い合わせを受け、体験も行い説明まで差し上げたうえで、一切音信不通になったことも何回かある。つまり「入塾意思はありません」と伝えたいのだろう。
これ自体、別に珍しいことでもなんでもなく、実際は鉄板の対応なのかもしれない。押し売り回避のためにも、連絡を絶つことが合理的という考え方も理解はできる。
ただ、そんなことを、”僕は”したくない。せめて時間をくれたことについて礼を言いつつ、やんわりと断りは入れたい。それは、人にそうして欲しいという意味ではない。
僕がそうしたい・・というより、そんな不義理を働く自分を想像したときに、僕を含めて誰もいい気持ちがしないからである。それがたとえ貧乏くじであっても、だ。
―そして最近は、その考え方がさらに固化してきた気がしている。というのも、もはやこれは僕が引くべき貧乏くじじゃないものまで、積極的に引いてしまっているからだ。
先日、別の講師から、「〇〇が塾辞めたいってLINEを送ってきたわ」と、しれっと報告を受けた。僕はとっさに、「親に話はしましたか?」と返したが、回答は否だった。
そこからは生徒本人に連絡を送り、親にもメッセージを伝え、改めてアポを取り、こっちもどこか意地を貫いて電話を繋ぎ、きちんと区切りの挨拶を入れたところである。
無理やりケツを叩いて説得させてもよかったが、そういう風に対応することが校舎長の仕事なのだろうかと、純粋に疑問符が付いた。だから僕が動いたというだけなのだ。
結果、精神が擦り減ったという言い方もできるのだが、個人的にはずっと心の底でわだかまっていたものが取れて、気分としてはスッキリしている、という感じが近い。
打算は無い。そう振舞うことで誠実な校舎長が居るという評判を立てるため・・という計算から出た行動・言動ではない。そんなことを考える余裕はない。
もちろん僕自身が擦過傷を追うこともしばしばだが、それによって誰かの心の傷が減り、僕自身の信念をも守れるなら、その対価としてはあまりにも安いと納得している。
―と同時に、僕はあまりにも不器用で、青二才だからこそ、それにおける税を払う形で日ごろから損をしているだけなのではないかと、そう不安になることもある。
それをかっこよく解釈しようと気持ちに蓋をしているだけなのが、つまり今の僕なのではないかと。それならば器が成長していない気がして、救いがない話になる。
・・・だが最近、その悩みは払しょくされつつある。そのきっかけは、やはり社長・起業家の方々の言葉だった。
それらに触れていると、正直であること、誠実であること、嘘をつかないことの重要さは何度も何度も、形を変えて登場する。僕は間違っていないのだと、安心ができる。
それを免罪符に、周りが間違っているとか、不義理は罰するとか、そんな風に周りへの影響を積極的に行使する気はさらさらない。あくまでも僕が納得すればいいだけだ。
貧乏くじを引いてでも、不義理はしない。この信念は、死ぬまで持ち続けたいなと、大仰だがそんな風に思っている。では今日はこの辺で。