僕は何を成したくて働いているのか。僕は何を残したくて頑張っているのか。そもそも僕にとって生きることは何をすることなのか。そういう根本を最近はよく考える。
―といっても心が病んだわけではなく、どの起業家も、自分にとってのミッション、つまり「なぜ」それをするのかをはっきりと持っているのに気づいたからだ。
それこそがいわゆる「芯」であり、どんな苦境・苦難・修羅場・絶望においても彼らが最後まで諦めなかった理由たる心の拠り所なのではないかと、そんな風に思っている。
では、僕にとってのそれは何なのか。いざ問いかけても、「なんかこう、勉強を通じて楽しさを・・」みたいな曖昧な答えしか得られなかった。だから一度、しっかり考えた。
その際出した答えは、僕の人生は「観察➡探求➡創造➡共有」でできた軸が、高速回転することで安定し、エネルギーを放つコマのようなものである、というものだ。
これ自体の腹落ち感は確かに強く、僕が掲げるべき標語として、しっかりとした強さを持っているとは思う。だが、せいぜい70点程度のものだな、という感覚もあった。
だから今日、改めてがっつりChatGPTと話し合って、さらにそれの解像度を上げてみた。結果、僕の人生の標語として掲げるべき言葉が、一層明瞭に更新されたのだ。
それは「観る 、気付く、 確かめる、整える、差し出す」というものだ。以下、自分自身の思考の整理も兼ねて、丁寧に棚卸ししていく。
観る。

この「観る」の言語化が一番難しいのだが、僕なりの感覚としては「特に何にも意識を集中させず、心をオープンにしておくこと」がそれに当たる。
五輪の書で武蔵も「観る」という言葉で表している、「遠くの山を見るような」意識の持ちようと近いのでは、と思う。とにかく、目線・思考を緩めておく感じだ。
尚、僕がこのモードにあるときは比較的”少なく”、何かしらの物事が片付いた後みたいな、集中・探求する対象を良くも悪くも失った後くらいしか、そんなときは無い。
たいていはさっさと次のモードに移行する。それこそが、”気づく”というものである。
気付く。

”観る”状態をしばらく続けていると、我ながら不思議なのだが、突然心にポンとアイデアが浮かぶことが多い。しかもそのアイデアの性質は、本当にバラバラだ。
仕事に関することもある。プライベートに関することもある。極端な話、友人の困りごとの打開策であることもある。何かが繋がり、パッと閃くあの感じ。
最初はこれを「直感」と呼んだり、あるいは「仮説」と表現したりしていたが、どれもこれもしっくりこなかったので、ならばと「気付く」という言い方にしてみた。
こうすると、「自分の好奇心のレーダーが反応していることに気付く」という意味合いが上手く添加できて、「仮説」よりしっくりくる定義ができたという次第である。
確かめる。

一度好奇心が向いてしまえば、僕はそれを確認せずにはいられない。とはいえ「確認する」としてしまうと、どこかその正体を見ただけで満足する意味合いが入ってしまう。
しかしながら、「実験する」とまで言い切ってしまうと、実際はもうちょっとポップな形で自分の好奇心を満たすこともあるだけに、嘘をついている気分になる。
例えば飲んだことのないコーヒーを見つけたとき、それを買って飲むことは実験なのだろうかというと眉唾だろう。そういう話だ。
だからこそ、実際に試したり手に取ったりすると言った行為の総称として「確かめる」という動詞が一番収まりが良かったというわけである。
ただ、僕は「確かめてそれだけで満足する」こともまた、ほとんどない。だから、ここからさらに深めたフェーズが、まだあるのである。
整える。

先に書いておくと、「観て、気づいて、確かめたもの」が全てこの段階に行くとは限らない。確かめた結果底が知れて、興味が萎えることもまた多いのだ。
ただ、確認した結果、これはきちんと整理整頓して形にしたいと思った際は、それをまとめる時間を僕は必ず取っている。
例えばノートに書き出して枝葉末節を切り取ったり、追加情報を調べて肉付けしたり、こうしてブログ記事にすることで言語化したり、その方法は様々だ。
イメージとしては、自分が作りたい料理のレシピがある程度揃ったところで、それをコースとして一つのパッケージにするにはどうすればいいか考えるのと似ている。
そして基本、この「整える」に至った際は、それを放り投げることは少ない。ブログ記事を書き始めたら、僕は大体書き終えてしまうほどだ。(30記事に1つくらい頓挫するが)
だからさらに次の段階を経て、僕の好奇心はさらに練度を高めていく。ちょっと大げさだが、最後のステップを言葉にしてみよう。
差し出す。

ループの最後は、「差し出す」だ。ただ、ここは起点なのかそれとも終点なのか、自分の中でまだ答えが出切っていない。そのため、あくまでも順番は暫定解だ。
興味・関心をそそられたものを観て、新たな気付きを得たらそれを確かめて、編集で整えた後は、僕はそれを世に出したい。-というより、形にしたい。
このブログもそうだし、普段の授業・指導もこの「差し出す」に当たる。いわばクリエイトされた作品を世の中に公開することが、僕の人生のループの到達点なのだ。
だが、それに対して周りがどんな反応をするか、それについてはあまり興味がない。もちろん感想がもらえたらそれは嬉しいし、真っ当な非難なら、ちゃんと受け止める。
しかし、それを得ること自体はどうしても目的にはならない。あくまで一度完成としたものから、また新たな気付きや反省、ヒントを得ることの方が、優先順位が高い。
だからまた、「観る」に戻る。新しい興味の対象に出会うまで、また心を遊ばせておくため・・というより、単に夢中になっていたことに飽きただけという感じに近い。
僕が何かを創るのは、それによって他人に影響を与えたいといった理由は毛頭なくて、そのプロセス自体が一番楽しいからだと思っている。完成形に興味は無いのだ。
実際、僕は僕の授業を通じて、生徒が感心したり笑ったりしている様子を見るたび、それに満足するというより、何がそれを引き起こしたのかという理由に興味が向く。
そしてそれに対して何らかの仮説に気づき、実際に意識的にそれを確かめたら、その手応えをきちんと分析して編集し、また別のモノを世に差し出す‥。
なんと綺麗に、繋ぎ目のないループなんだろう。この途上に常に自分を置くことが、僕にとって最大のモノサシという手ごたえ、なるほど間違いないと強く実感できている。
まとめ。
僕の人生原理は、「観る 、気付く、 確かめる、整える、差し出す」。これ自体は前回の観察➡探求➡創造➡共有という暫定解より、やはりしっくり来ている。
とはいえまだまだ手応えは85点程度であり、例えば僕自身のHPを立ち上げるとき、これを理念として掲げるかと言われれば、もう少し完成度を上げたいところだ。
ただ、それはこの記事を差し出すことで、また新たな”観る”が始まると、勝手にそれは成されていくことだとも思う。そう信じて、この記事についてはここで終える。
また時間を置いてから読み返すことにしよう。では今日はこの辺で。