今日は、「最近、急速に興味を失ったもの」について書いておきたい。先に言ってしまえば、それは未来のことである。
例えば、「5年後、10年後の理想の自分をイメージし、そこから逆算して行動しよう」という考え方は、本でも講演でも、至るところで見かける教えだ。
だが、ここ2〜3ヶ月の間に、僕の中からこの発想への興味が完全に消え去った。なんというか、考えても無駄”とさえ思わなくなった”。意識が一切向かない、とでもいうか。
なんなら、その日に予定されているタスクのことを考えるのも億劫になっている。リストの上から下へ着手して終わらせればいいじゃないかと、そうとしか思わない。
今日の後半に労力を食われるタスクがあるとかないとか、昔はそれで一喜一憂していたけど、今はそんな短いスパンであっても、未来のことである限りどうでもいい。
この記事ではそんな心境を、以下つらつらと書いていく。
意味ないことを、考えたくないということ。
そもそも、10年後の自分、ひいては世界の有様など、もはや想像もつかない。10年前の僕が今の世界を想像できるわけがなかったのと全く同じだ。
44歳になった僕が、どこで何をしているのか、何一つ具体的にイメージできない。そもそも、テンプレな44歳「らしさ」などという概念も、よく分からない。
社会も、テクノロジーも、自分自身の状況も超急速に変化している中で、将棋で百手先を読むような未来を想像しても、もはや何の意味も持たないと感じている。
とはいえ、まったく時間軸を持たずに生きているかといえば、決してそうではない。やはりある程度の見通しは要る。それが無いと、全てが場当たりな言動になる。
しかしながら、今の自分にとって関心がある、コントローラブルだと考えている領域は、せいぜい2ヶ月後までである。これなら意味があると、まだギリ思えている。
2ヶ月後にどうなっていたいか。その問いに対しては、結構鮮明なビジョンと納得をもって行動できるし、そこに関しては本気で向き合う覚悟も意欲も湧いてくる。
そこから先の話となれば、もはやどうでもいい。10年後の自分が理想の姿でなかったとしても、何なら死んでいたとしても、それは十分あり得る未来として、仕方がない。
諸行無常という言葉で乱暴に包めばそれまでなのだが、この2ヶ月を経て、割といつも、常にそういう感覚の中にいる。
・・という話をすると、「未来への関心を失うのはうつ病の兆候では?」と心配にもなってくる。実際、未来への希望が持てないことは、メンタルの危険信号とも言われる。
だが、自分としては、そういう類の無関心ではないという確信がある。もともと、「未来を無理に語らされること」に対して、空虚さを覚えてはいたからだ。
「10年後? まあ、独立して2店舗くらい持っていたいですね」といった風にそれっぽいことを答えこそすれ、自分の中には何の実感もやる気もない、なんてのが常だった。
「そう言っておけばいいか」と思って、適当に口にしているだけである。それくらい僕は、未来というヤツに、そもそも興味が薄い人間だった。それを忘れていたようだ。
この元来の、未来に関心がない性格がここ数ヶ月でさらに洗練され、構図としては今この瞬間に最大限集中しようという意識が非常に強くなったということなのだろう。
1日、1週間、あるいは2ヶ月先のアウトプットを最大化すること。そのために使えるエネルギーは、すべてそこに注ぎたい。
何年も先の未来を見据えて生きることは、確かに大切かもしれない。しかしそれができない僕はやはり、「今」をより濃密に生きる方が、人生として向いていると思っている。
未来について語らない代わりに、今を見る。そして、すぐ先にある現実とがっぷり四つで向き合っていく。それが、いまの自分のスタンスである。
ここだけ書くとカッコいいけど、その起点は「未来への興味が完全に消えた」というただ一点なのである。
ということで、今日はこの辺で。