最近、僕がフォローしている方の記事を批判する旨の記事が、noteでふと目についた。タイトルもひと昔前の2ちゃんみたく、「煽る」意図全開で、すごく香ばしかった。
普段ならこういう冷笑系の文章など色々と毒なので無視するのだが、今回はその相手が相手だったので、思わず目を通してしまった。(宣伝になるのでシェアはしないが)

しかしながら、その内容を一通り読んだ結果、どうにもある感想が全面に出てしまい、僕自身が例えば敵意帰属バイアスに陥っていないか、不安に思ってしまった。
だから慎重に読み直したり、ChatGPTの意見を求めたりしたが…僕の感想の方が自然っぽい、という結論が引けてしまった。
今日はそんな、ぶっちゃけ自分の中に生じてしまった不快感を、言葉にして綺麗にするという、そんな狙いの記事である。
冷笑系の文章がくれるもの。

率直に言うと、僕が感じたのは「キモさ」と「イタさ」だ。噛みついてこそいるのだが、その論拠も展開も全てが”主観的かつただのイチャモン”で、すごく胸焼けがした。
今回も、批判(になっていないのだが)を差し挟んだ理由が、つまり「俺が理解できないから」という一点であり、それが「正しい」のが前提として始まってしまっていた。
単純化するなら、「俺が理解できないモノは間違っている、何故なら俺が理解できないものは間違っているからだ」というヤバすぎる出発点になっていたのだ。
だからか、論調は自然と、以下のような物言いとメタが伴ったものになってしまう。
「こういう造語を作ってラベリングするなんてのは、ただのまやかし」(なぜなら俺がそう思うからだ)
「耳触りの良い言葉で人を巻き込んで動かしているだけ、これは危ないムーブメントである」(なぜなら俺がそう思うからだ)
・・といった論が、いわば組み合わさった一つの建造物として機能しているのではなく、ただただ揚げ足取り目的のバラバラの段落が並んでいるだけ、という印象を持った。
もちろんその違和感に対する代案も異論もなく、最初から最後まで、「つまり俺が理解できなかったんだからこれは悪いものだ!」という独り言が並んでいた。
案の定誰の「スキ」もついておらず、特に波風立てずに今後も埋没していくだろう、という未来が透けて見えた。とても香ばしい記事だったなぁ。
ただ、一つだけリスペクトするとしたら、この記事のロジック(と呼ぶのもどうかと思うが)は、いわばヒス構文のように、再現可能な”構文”として完成されていた点だ。
それを使うことで、”イタい文章”を誰でも作ることが可能になると思った。ということでそれを用いて、「AIには反対」というテーマで文章もどきを書いてみた。
AIには反対だ。なぜならうさんくさいからだ。
生成される絵はどこか人が描いたものとは違うし、チャットと喋るなんて気持ち悪い光景である。
そういうのを肯定する人はどうかと思う。なんでもかんでも新しいものに飛びつくなんてのは、見ていて滑稽である。
それは例えば、ペッパーくんを絶対的な権威筋と思って心酔するようなものである。
こういうのに飛びつくような人には、僕は絶対なりたくない。
・・・ちなみにこれはもちろん、ただのフィクションだ。とはいえ僕が本当にそう思っていると思われるのは心底嫌なので、一応構文としての解説を入れてみる。
AIには反対だ。なぜならうさんくさいからだ。
➡まず自分の感想を論拠にする
生成される絵はどこか人が描いたものとは違うし、チャットと喋るなんて気持ち悪い光景である。
➡ただの感想・主観・偏見で段落一つ仕上げる
そういうのを肯定する人はどうかと思う。なんでもかんでも新しいものに飛びつくなんてのは、見ていて滑稽である。
➡とりあえず「笑える」的なコメントでマウントを取る
それは例えば、ペッパーくんを絶対的な権威筋と思って心酔するようなものである。
➡絶妙に例えられていない例えを入れる
こういうのに飛びつくような人には、僕は絶対なりたくない。
➡どうでもいい感想で締める。代案も異論も言わないままにするのがコツ。
という感じ。冷笑系の文章はいつ読んでも、不快感以外を僕の中に残してくれないから困ったものだ。なぜそこまで、自分は知れた側なのだという全能感を持てるのか。
疑問は尽きないが、興味はない。そんなことを常々思う。では今日はこの辺で。