僕は自分の心が強くないことを自覚しているが、人の発言で「明確に傷ついた」と記憶している場面は、実際のところ、ほとんどない。
心に深く残り、思い出すたびに胸が痛むような言葉は、数十年生きてきて、片手で数えるほどしかない。(しかも相当頑張らないと思い出せない)

一方で、「あの発言を思い出すと今でも鳥肌が立つような気持ち悪さ」を覚える言葉なら数多くある。僕はどうやら、傷つきには鈍感だが、嫌悪には敏感なようだ。
前々からここに書いてはいるけれど、やはり人が「傷ついた」と表現する感情には、少なくとも2種類あると僕は考えている。
それは「傷心」と「嫌悪」だ。今日はこれを題材に、僕なりの似非哲学といえる、そんなライトな記事を書いてみようと思う。
あなたの悪感情はどこから?

僕の場合、やはり改めて思い返すと、”嫌な記憶”として残っているものの9割以上は、シンプルに「気持ち悪い」と感じたもので占められている。
これは生理的な嫌悪感と言い換えられる。たとえば「手に汚物が付いた」ときのような、恐怖ではなく、強烈に不快な刺激である。
僕が特に強くそれを覚えるのは、ネット上のアンチコメントだ。割と最近まで、これらによって僕の心が傷つけられてしまうと思っていたが、どうやらそれは違うらしい。
それこそ、それを言われた人がどういう辛い気持ちになるかなどを受信して、過共感(エンパス)なのでは、と思うこともあったが、もっと正確な表現を最近見つけた。
やはり嫌悪だ。僕はシンプルにああいう物言いを”超キモい”と”しか”思わない。排水溝にぶちまけられた誰かのゲロをうっかり目に入れてしまったときに似ている。
倫理も論理もなく、相手に対して建設的なことも言わず、ただ自分が知的に見られたいという意図が感じられると、意識にゴミをこすり付けられたような不快感を覚える。
これを「傷ついた」と呼ぶのは違う。単に「ドン引きした」だけである。僕はある意味純粋と思っていたのだが、単に綺麗好きと言った方が正しいのかもしれない。
この区別を自分の中でしっかりつけておくことは、とても大切だ。なぜなら、傷心と嫌悪では、その後のケアが全然違ってくるからだ。
失恋で心が傷ついた人に「手を洗えばいい」と助言しても意味がないのと同様に、僕のように「不快感」に苛まれる人を気分転換に連れ出すのは、多分何かズレている。
両者は本質的なところこそ似ている異なる現象だが、最適なケアは微妙に違う。間違った手を打つと、不快な感情が持続することがあるからこそ、その見極めは大切だ。
だからこそ、自分が感じたネガティブ感情は「傷心」なのか「嫌悪」なのかを、あたかも品質管理のようにパッと仕分けできれば、無駄な消耗を防げると考えている。
とりあえず僕の場合は、「何かしらの刺激が僕の意識にクソを付けていきやがったんだな」と思っておけば、98%は正しいとは判っているので、あとは事後策がカギとなる。
心についたウ〇コはどう流せばいい?

ここからはまだ仮説検証の途中なのだが、手に付いたクソは石鹸で洗い流せばいいとして、では心についたウ〇コはどうすればいいのだろうか。
色々な人の意見を参考にしたが、今のところ多数派なのは、「そこから意識を切り離す時間を取る」というものだった。
たとえばひろゆき氏であれば、若い頃はどうにも気持ちが揺れたとき、「しばらく映画に没頭する」時間を意識的に設けていたという。
それと同様に、僕も何かしらに没頭する時間を作ろうかとも思ったが、それは恐らく段階で言えば「次」の話であり、まずは”洗い流す”時間が欲しいな、と思っている。
何がそれに当たるのかはまだアバウトだが、たとえば数学の問題や羽生善治氏の著書といった、非常に論理的な文章を10分くらい読むのはどうかと思っている。
それによって「正しい言葉遣いってこうだよな」ということが再認識できれば、クラッチも切れるし、気持ちの切り替えも容易になるだろう。まずはやはり解毒が先だ。
2025年は本当によく、嫌悪という感情に向き合っている。そしてその都度、大きな発見に至れている。思索という意味では、金脈に近いのかもしれない。
引き続き内省は深めたいと思う。では今日はこの辺で。