【観察力の鍛え方】にも書かれていたが、コンテクスト(文脈)は、目の前の現実の見え方を大きく変える。
例えば公的な集まりにラフな格好で来たら「ナメてる」と思われがちだが、「直前まで久しぶりに子供と遊んでいた」といった事情を知ると、立ち上る意味は変わってくる。
これは本で得ていた知識に過ぎず、僕にとってはただの情報でしかなかった。しかし最近、この事を【強く実感する出来事】に、偶然だが触れた。
それは今考えてもなかなかに学びの多い一幕だったので、今日はそれを素材として、記事を書いてみる。
彼は僕に何を見ていたのか。

低学年向けコンテンツの生徒に一人、やたらベタベタと僕に絡み、構ってほしがる男子がいる。
ことあるごとに僕の手を引いたり、マウスを盗んだりと、正直辟易するところもあったのだが、正直これも仕事だとある意味線を引いて、どこか割り切っていた。
そんな折、ある日の言動はちょっとあまりにも目に余るなと正直思ったので、お父さんかお母さんに伝えるよ、と軽く釘をさしてみた。
そのときその子は、「お父さんもうおらんから無理よ」という、とても気になることを言ってきたのだ。地雷を踏んでしまったかと思ったが、その後に出てきた話に驚いた。
全く知らなかったのだが、入塾してから今までの間に、離婚したそうなのだ。つまり今は、母子家庭なのだと。正直、これはマジで全く知らなかった。
・・・となれば、僕に対する距離感がやたら近いことに、全く別の、それでいて切実な願いが透けて見える気がしてきた。
例えば、父性が足りなくて寂しさを覚えているのか?それもあって、僕に何かを重ねているのか?そう思うと、熱いものが込み上げてくるのを正直、覚えた。
その一瞬のやり取り以降、僕はその子に対して思っていた若干のネガティブ感情が、綺麗に霧散している。行動の裏にあるのは、悲しいコンテクストかもしれないのだ。
もちろん馴れ馴れしいタイプの子が、全員こういう事情を抱えているとは断言できない。しかし、言動の裏までしっかりと見よう、考えようという意識を、強く覚えた。
と同時に、コンテクストが見えるものの認識を変えるという【観察力の鍛え方】に書かれていた話は、やはり本当なんだなと、くまなく理解できたとも思えた。
色んな意味で深い学びになったと同時に、僕ももうニーチャンというより父親よりの存在に見られうる歳になったかと、そんなことも考えた。
誰かの心の支えになるなんて大仰なことは口幅ったくて言いたくないが、僕が意識せずとも、他人が僕をそう思う可能性があるというのも大きな発見だった。
「わかった」は禁句。

ところで僕は、「わかる」という言葉を禁句にしている。人から言われる分には気にしないが、自分が言うのにはものすごく抵抗がある。
それは逆に、相手に歩み寄ろう、本当に理解しようという気持ちを「切った」ということを意味すると感じるからだ。「わかった」は、すなわち「わからない」のである。
今回も僕は、確かに一面として彼の置かれている状況を”知れた”とは思うが、それがつまり彼の本心を分かることができたなんて、つゆほども思っていない。
コンテクストはあくまで情報の一つであり、いわば現代文の読解問題を解くために用いる描写のようなものだと考えている。
答えに辿り着くことはできるかもしれないが、その裏に隠されている真意に至れるかどうかは話が別なのだ。そこは履き違えないようにありたいと思う。
では今日はこの辺で。