受験生だった頃に比べれば、さすがにテキストや問題集に向き合う時間は減ったのだが、その当時以上に、より広く浅い学習をずっと続けている気がする。
国語算数理科社会英語を超越して、必要とあらば民法を齧り、また興味が出れば仏教哲学を学び・・そんな風にして、ずっと何かの初学者の状態に、自分の身を置いている。

はっきり言ってしまえば、僕は勉強自体、好きだ。自己成長そのものはやはり楽しいし、知らないことを知ることができるプロセスそのものがエキサイティングだ。
―しかしながら、勉強の動機が、そういうピュアな思い100%かと言われれば、正直言ってそうではない、ということは白状しておきたい。
なんならダークな理由も、ここには潜んでいる。今日はその部分を言葉にして、記事にまとめていく次第である。
類は友を呼ぶ。呼ばれる友になるためには、”彼ら”と同類にならねばいけない。

「類は友を呼ぶ」。この言葉を聞くたびに、最近はすごく緊張感を覚える。昔も記事にした記憶があるが、やはりこの言葉には”裏”がある。
ひろゆき氏の配信だったと思うのだが、そこでの質問に、「頭がいい人と働きたいのですが、周りにいません。どうすれば出会えますか?」というのが来ていた。
そこの返しが物凄く辛辣だったのだが、僕はそれを聞いて、「芯を食っている」とすごく納得してしまった。
その返しとは、「多分あなたが頭悪いからじゃないでしょうか」というものだった。さらに、「頭がいい人は、頭がいい人同士で集まりたいんですよ」というのが続く。
「だからあなたのいるコミュニティに頭がいい人がいないということは、あなたが今いる場所が頭の悪い人の集まるところになっているんじゃないでしょうか」と結ばれた。
これを聞いたとき、「ざまぁww」という”頭の悪いこと”は微塵も感じなかった。むしろ、やはり、納得した。それは、僕こそ頭の良い人だと言いたいわけでは全くない。
過去に知識として知っていたデータと、見事に一致する話だったからだ。それは、いわゆるアンチコメントなどを残す、悪質なネットユーザーに関するものだ。
実際、インターネットで積極的に政治活動(もどき)をしたり、悪口を書いたり、フェイクニュースを拡散したりする人には、ある悲しい共通点があるという。
それはサイコパス気質かつ知性が低いというものだ。気持ちを想像できないことに加え、簡単なテストでも正答率が低い人たち。それがあの正体と思うと、確かにと思う。
文章を素直に読めない。感情的に判断し行動する。たとえそれが論理的であろうと、感情論に変わりはない。気持ちが読めないので自分勝手な振る舞いが直せない。
指摘をされてもそれを受け入れて理解し、修正する知性が無い。だからあそこまでめんどくさい存在に成り下がっていく‥‥。
もし、そういう存在が僕の周りに増えていったら?もし、頭いいな~と僕が素直に思える人が、僕の周りからいなくなっていったら?そう思うと、本当に怖くて仕方ない。
常に自分をアップデートして、退廃しないようにしていないと、僕は簡単に、クレバーな人たちから自然と距離を置かれていってしまうように感じている。マジで怖すぎる。
胸糞ショート動画を観ている暇があったら、経済や法律を勉強している方がいい。復讐モノの動画を観ているくらいなら、名作とされる映画を1本見た方がいい。
教養とは何かという根本を学び、それを自分に注ぎ続ける。それこそが僕にとっての勉強であり、だからこそ、これを”止めることは絶対にできない”と思っている。
類は友を呼ぶという言葉はもはや、僕にとってのダモクレスの剣だ。ネットでの「うぇっ」と思う不快な発信を見るたびに、そっち側にいない自分に安堵したい。
そのためには学ぶしかない。本当にそう思う。
では今日はこの辺で。