先日、尾形幸弘さんのブログ記事、『バランスの法則を知っていると人間関係が楽になる』というものを読んだ。
尾形氏の著書は過去に2冊ほど読んでいて、ブログも2日に1回は読むようにしている。そしてその記事の内容は、人間関係を楽に考えるための心構えについてであった。
例えば、旦那が怠け者なら妻が働き者になる。逆に妻がズボラなら旦那がきっちりする。片方が突出すれば片方がへこみ、全体でバランスが取れる。
そうした仕組みで世の中は成り立っている、という話だったが、確かにそうだと思った。例えば同じ組織に「働き者」が1人いると、他の人は自然とサボりがちになる。
だから結果として、”帳尻が合ってしまう”という風に。なるほど、僕が日常で”かつて”抱えていた悩みも、そこに原因があるのかもしれないと納得した。
【バランスの法則】を知って、納得と諦めを得たという話。今日はそんなことを書いてみる。
反比例してしまうのなら…

自分が働いたら相手がサボる。これは自然の摂理であり、あなたのせいではない。なるほど、これは心が軽くなる考え方だ。しかし同時に「救いがない」とも僕は感じた。
僕が必死に働けば働くほど、周りはさらに手を抜き、それによってバランスが取れてしまうのなら、それこそ”まじめに生きちゃ馬鹿を見る”じゃなかろうか。
しかもこれは個人の性格ではなく、仕組みとしてそうなっているのだと考えると、余計に救いがない。これはあまりにもネガティブだろうか?
―実際に、僕が滅私奉公を強めるにつれて、周りの人がラクを享受することが増えたな、という感覚がある。僕の休みがゼロになったら、周りの余暇が増えた、というか。
元々定時キッカリ退社は当たり前だった人が、最近は一つグレードが上がって、仕事が無い日は「早上がり」をすることが増えてきたように。
もちろん、業務が本当に終わって、することがマジで無いのなら、定時内で職場で遊ぶなんてのは論外なのもあり、早く帰ってもらった方が理に適っていることもある。
人件費が削れているわけではないので、組織としては健全ではないが、僕としては構わない。ただ「ついにここまで来たか」と思うと、バランスの法則の深刻さを実感する。
先の記事では「逆に自分が手を抜けば、周りがその反動で働く」という可能性も示されていた。実際、今年の初めにコロナで5日間休んだ際、現場はそれなりに回っていた。
しかし今の時期に、体調不良でもないのに同じことをすると、「じゃあ自分も手を抜こう」という方向に流れる気がしてならない。だからこの手は、リスキーすぎる。
―となれば僕に残された道は、周りが手を抜くスピード以上に、自分の生産力を高めることだと感じる。周囲の怠けを上回る成長を続けるのがベターなのかな、と。
これは救いがない発想ではあるが、同時にどこか清々しさもある。「そこまでやらないのなら、こちらがやるしかない」。そう腹を括る方が直感的に正しい気もしている。
そういえば昔から僕は、他人に期待をするのを避けてきた。正直、僕が本当にできない部分だけ助けてくれれば、マジでそれでいい。
「自分が早く帰れるように手伝ってほしい」などという望みも、もう持っていない。相手が定時に帰ろうが早退しようが構わない。
そう考えたとき、バランスの法則は救いというより、一層覚悟を強めるきっかけにもなった。結局は自分がやり切るしかないなと、そういう思いに腹が決まったのだ。
そこに辿り着けたことの安堵は、ぶっちゃけここで募った寂しさを超えている。だから別に、良いかなとも思う。では今日はこの辺で。