精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

2025年6月から現在までを、【感情】の面から振り返る。

2025年は、記事に仄めかした通り、6月を境にして仕事における大きな変化が始まった。今思えば、それは予測できなくもなかったが、なかなかのインパクトだった。

 

もちろん、最初は戸惑いや驚きが強かった。しかし、やがて苛立ちが強まり、時間が経ってそれが落ち着いてくると、意外なことにその後は「寂しさ」が募ってきた

 


僕はこんなところで潰える気持ちは微塵もなく、自分が持つ資本を余すことなく仕事へ注ぎ込む一方で、周囲の人間は動かず、声をかけても賛同も反応もしない。

 

そういった現実を前に、自分が信じていた夢や幻想、他者への期待は音を立てて崩れていった。その残り香が、「寂しさ」という感情としてしばらく漂っていたように思う。

 

そんな風に、この2025年は、感情面から分析すると、過去にないほど揺さぶられている年だといえる。これは内省するのにおいて格好の材料ではないか?

 

そう思ったので、以下、2025年の激動っぷりを、主に僕のエモーションの面から振り返ってみた記事である。

 

 

未経験の感情が生じては、それに鈍化することの繰り返し。

 

6月以降、心の中から完全に仕事を消して、純粋に今過ごしている時間に集中して、「本当に楽しい!」と思えた時間は、圧縮すると3日程度しかない。

 

それ以外の時間は全て、何かに追われるようなメンタルが続き、精神の余裕もなく、休みも返上し、「なんとかしてやる」という気持ちを全て行動に変えていた

 

誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで残る。極端なことをしているという自覚が心の支えになっているような感覚。背中を見せれば周りも変わると、少し期待もしながら。

 

しかしそれを尻目に、周囲がゆっくり来て、定時で帰る姿を見続けるうちに、苛立ちを超えて寂しさを強く覚えた…ということは、先述の通りだ。

 

ちなみに今はそれすら薄れてしまい、”完全に”無関心になってしまっている。それこそ、よくわからない理由で早上がりをされても、なんにも興味が無い感じだ。

 

正直、「なぜやらないんだ!」「どうしてしないんだ・・!」という怒りや悲しみを超えて、「せんならせんでいい」という区切りができたのは、良いことだと思っている

 

感情が鈍化したか、あるいは僕の心の器がデカくなったか。とはいえ、手放しに喜べないような、複雑な気持ちも同時に覚える。

 

手の届く範囲は自分でやる、関係のない領域は放っておく。割り切りとしては合理的だが、それが”血の通った人間として”、良いことなのかどうかは、まだ判断できない

 

一旦、まとめる。今年は人生で初めてのレベルで、誰かとの死別とは異なる激甚の寂しさに襲われた。それは苛立ちが”進化”する形で、僕に湧いてきた

 

そしてそれは決して一時的なものではなく、やがて「本当にどうでもいい」という無関心に置き換わった。2025年の後半、僕は多くのことから興味を失っている。

 

実際、未来への興味も相変わらず薄く、数年後や数か月後はおろか、当日の夜の予定ですら、腰を据えて考える意味を微塵も感じられない。

 

目標を毎日確認し、その差をしっかりと実感し、それを埋めるために作った目の前の行動にのみ集中していると、あっという間に時間が過ぎ去っている感覚だ。

 

これはどこかうつ的なものに近いのかもしれないが、涙が溢れるといった重症感はないので、「まあいいか」と思えている。

 

ただその甲斐あってか、最近は仕事の良い流れが戻りつつあり、目に見えて問い合わせも増えてきた。つまり、今はまさに、エネルギーを注ぐべき時期だ。

 

だから今日から酒を止め、体調を整えて、12時間でも15時間でも仕事に投じてやろうと腹を決めている。実際今は、したいことも学びたいことも山積だ。

 

この無感動・無関心状態は、腹が決まった人間が辿り着く境地なのか。それとも単にメンタルの疲労閾値を超えて、防衛モードに入っただけなのか。

 

それはまた、年末に振り返ってみようかなと思っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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