精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

”一人役割分担”という考え方を身に着けたい。

僕は基本的に一人でなんでも”こなせないと回らない”ような規模のところで努めている。それこそ最近、経理の勉強にまで手を出したくらいである。

 

こういうところで色々な役割を務め、様々なスキルを用いていると、嫌でも「自分が時折分身するような感覚」を抱いてしまう。

 

講師としての僕、経営者としての僕、広報部としての僕‥。それに留まらず、合理的な僕、サイコパスな僕、感情的な僕も次々と意思決定に関わってくる。

 

昔読んだ【「私」とは何か】で説かれている「分人主義」を、また違った側面から実感しているようなものだ。確かに僕は、個人の中でさらに分化しているようである。

 

だからこそ今は、それらをいちいち喧嘩させたり宥めたりしている場合じゃなく、むしろそれらを統括して、一つの方向に向ける方が建設的だと考えている。

 

頭の中で分裂している僕をさらに管理する、巨大な自我。この観点を得られれば、僕はもう一段階大きな器を得られるのではないか。そんなことを夢想する。

 

―しかしながら、この意識の置き方のヒントは、既に自分の中にあった。今日はそれを思い出しつつ、時には補完しながら、思うことをまとめたい。

 

 

絶対不変の自分などいないという前提に立つと‥。

 

このことをふと思った際、僕が思い出したのは【仏教哲学】の根幹の1つ、諸法無我だ。(諸”行”無我、ではない)

www.otera-no-jikan.com

 

今のところ僕はこの言葉について、「いわゆる本当の自分、真の自我に当たる確固たる人格など存在しない」といった意味だと捉えている。

 

これは”分人主義”の文脈が近く、例えば友人の前にいる自分と、先生の前にいる自分は、どっちが本当の自分かを問うことにさほど意味が無いのと似ている。

 

そのどちらもつまりは自分であり、”私”とは、そうやって分かれた「私」の総体なのだ。…と、今は納得している。

 

さて。ここから先に書くことは、僕自身まだ完全に咀嚼できておらず、言葉にできるかさえマジで怪しいのだが、このまま筆を進めてみたい。

 

僕がやりたいのは、自分の中にある分人をできるだけ把握し、その出し入れをある程度は意識的にコントロールしたい、というものだ。

 

例えば保護者の面談をしている際の僕は、友人と酒を飲んでいるときの僕とはまるで異なる分人であるはずだ。

 

その時でも、例えばお店の人に粗相をされるなどして真面目な話が要るときは、同じ場所であっても一旦友人としての顔を引っ込めて、ビジネスのやり取りが求められる

 

逆に、大事な場面の前で緊張しがちな分人を察知したら、スマホの写真を見ながらでもいいので、楽しかった思い出のときの分人を憑依させ、緊張を緩和するのもいい

 

ここだけ切り取ると厨二病まっしぐらな能力者感があるが、これは大なり小なり、実は自然と皆やっていることなのではないか、と僕は感じている。

 

―ところで、これを可能にする際に必要なのは何か。それは、それらの分人のどれにあるかをさらに高次で観察する自我の存在だ。

 

この意識の正体が何なのかは僕もまだ全く内省が追い付いていないが、メタファーで理解することはなんとかできる。

 

それこそ、水槽の中に入った魚を眺めながら、あの魚は餌を食べている、あの魚は岩陰に隠れているといった風に観察して区別するイメージではなかろうか。

 

あるいは、三人称視点でゲームをプレイする際の、キャラとプレイヤーの関係に近いのではないか。その辺りの話だろうと、何となく予想する。

 

意識の外から、意識を観察する。禅問答のような難解なところに辿り着いた気がするが、これが可能になったとき、僕に見える世界はどうなるだろうか。

 

釈迦が解いた涅槃寂静が、そこにあるのだろうか。それともそこはまだ先にあると学ぶだけなのだろうか。

 

いずれにせよ、辿り着いてみたい境地ではある。では今日はこの辺で。