昨日、すごい熱量で、かつ的外れなクレームを受けた。例えるなら「野菜を1週間放置して腐らせたことの責任を、精肉部門に負わせようとする」ような理不尽さだった。
完全な創作ストーリーを論拠にしながら、人はここまで口汚く他人を罵れるのかと、途中から本当にちょっとした感動や面白さを覚えていたほどだ。
そのやり取りの中で「おたくは私のこと毛嫌いしてるんでしょ!」と言われ、反射的に「はい」と言いそうになったほどである。(「自覚あるんだ」とも思った)
確か4年くらい前も、こういうキモいクレームを受けたことがあるのだが、そのときに抱いた感想と同じものを今僕は持っている。しかもより高い純度で、だ。
以下、「嫌われることが怖い」人に向けた、肩の力が抜けるような胸の内を書いてみようと思う。我ながら貴重な内容だと思うので、以下丁寧にまとめていく。
”敵意”を向けられた今。
今最も感じることは、強烈に嫌われたにもかかわらず、意外と平気だというものだ。見える世界は同じだし、おやつを食べたら美味しいし、コーヒーはいい香りがする。
なんなら相手の怒鳴り声を聞きながらも、2~3分経った辺りから「人が怒っているのを聞くのは面白い」とすら思えた。段々と滑稽に思えてきたのだ。
途中からは「はい、申し訳ありません」「不快にさせてすいません」とだけ返し続け、具体的な返答をされても、謝罪もどきでひたすら流していた。
むしろ、相手が言わせたいこと(「私が全面的に悪かったです」というコメント)を徹底的に避けることで、一層怒らせて早くガス抜きさせた方が楽だと考えたくらいである。
実際、露骨に敵意を向けられた相手に対し、良質なサービスをする義理も道理も必要性もない。僕としては早く「辞める!」と言わせるように持っていきたいと思っている。
さて。はっきり嫌われていると分かると、それが意外とどうでもいいことがわかる。そうなると、なぜか逆に、接しやすくなるのだ。
前を通ると必ず吠える犬と同じで、相手の言動は簡単に読めるからこそ、余計なプランABCを考える必要がないからだ。「どうせ吠える➡ほらねw」、という風に。
僕の側から積極的に関係改善に動く気は微塵もない以上、今後その人からは徹底的に嫌われ続けるだろう。しかし先述の通り、僕にとってはどうでもいいことである。
むしろ、相手が僕を憎んでいる限り、僕が楽しく生きているだけで復讐になる。これはなんとコスパがいい構造ではないだろうか!
生徒から差し入れをもらったり、保護者から感謝のコメントを貰ったというのをシェアするたび、「さぞ歯がゆいだろう」と思うと、ダークな理由だが楽しくなる。
「金閣寺」の最後の方で、柏木が溝口の借金を老師から取り立てるシーンがあるが、そこで老師から見捨てられたことがわかる言葉を、溝口は聞く。
その後、その発端となった柏木が帰るのを呼び止めて、溝口は部屋に招くのだが、その際なんと溝口は「笑って」彼を呼び止めたのだ。
心底拒絶されたと思えたとき、時と場合によって、人はそれを歓迎できるのかもしれない。僕ももしかしたらそちら側なのだろうか。
まとめ。
結論として、人から嫌われても世界は何も変わらない。正確には、世界は変わらないが、僕が世界を見る眼鏡の純度が増すと言っていい。
この経験を経て学んだが、やはり嫌ってくる人に意識が向きがちなのを必死で堪えて、僕を支えてくれる生徒や保護者に報いる方が、圧倒的に大切である。
僕にお土産をくれた生徒の顔。僕に労いの言葉をくれた保護者のコメント。その全てにじんわりと救われている気持ちを抱いている。純粋なる感謝だ。
強烈な敵意は、自分の中にある傲慢さを破壊し、ありふれていると思っていた感謝を深める機会を与えてくれる。そう考えると、嫌われることも悪くないと今は思っている。
では今日はこの辺で。