最近、「ストレス解消」という言葉を自分なりに再定義しつつある。理由は簡単で、世間一般の定義が自分にマッチしていると、ここ数年思えなくなっているためだ。
実際、20代中頃までの自分にとって「ストレス解消」とは、どこかアクティブに内面にハックし、それによって心の中にあるモヤモヤを発散する儀式のようなものだった。

例えば夢中になれる趣味や遊びに没頭し、現実を忘れることこそがストレス解消だと思っていたし、実際そう聞かされてきた。疑いを持ったことさえなかったほどだ。
しかし、適応障害で仕事を休むことになった時期を振り返ると、そのときは”何をしても面白くなく、そもそも「楽しい」という感情自体が失われていた”。
そのため、一般的なストレス解消が試せず、それによってもどかしさが募り、多少なりとも症状が悪化した可能性があると感じている。
僕にとってのストレス解消とは何なのか。これは実のところ、そもそも言葉のチョイスから間違っているのではないか?
今日はそう思ったきっかけと、では今はどう捉えているかという現在地を、以下つらつらと言葉にしていこうと思う。
「解消」ではなく、「充電」。

最近は、「ストレス解消」という言葉の意味合いを、何かを発散させる行為ではなく、自分にエネルギーを充填する作業や時間と捉え直している。
この考えに至った背景には、スーザン・ケインの『Quiet』という本がある。同書では、内向的な人は、静かな空間に浸ることで心身を回復できると書かれている。
著者はその回復を「蓄電池に充電する感覚」と例えていた。これ自体、具体的なイメージとして、とてもしっくりくる。
興味深いことに、女優のエマ・ワトソンも同じことを語っている。人前に出て演技をする仕事に就いているくらいなのだから、さぞ外向的と思っていたが、そうじゃないと。
実際、撮影などの張り詰めた仕事が終わると、とにかく一人になって本を読んだり、何も考えなかったりする時間を大事にしているというのだ。
そんな大女優でもそうなのだから、いわんや僕のような内向型人間をや、という話なのである。
ちなみに、いわゆる外向的な人は、人と会ったり開放的な時間を過ごすことで「タービンを回す」ように充電できるタイプなのだという。
巷のストレス解消法が上手く機能する人は押しなべて、たまたま外向的だったというだけなのだろうと今は思う。だからカラオケやパーティーで体力が満たされるのだ。
もう三十を過ぎて受け入れたのだが、僕は決して”外向的なんかじゃない”。人と一緒にいることでストレスは一時的に軽減するが、対価として体力を消耗してしまうのだ。
そのため、自分が精神的・身体的に疲弊しているときに「ストレス解消」と称して、丸一日友人と遊んでも、結局もっと疲れて終わってしまうことが多かったのだ。
もちろん、それらの時間が嫌いとは言わない。だが、体力を充電するという意味で、果たしてそれが本当に最適解なのかは、もっと早くに疑問を持っても良かった気がする。
こうした認識の変化を踏まえ、最近は不必要なまでに仕事を積まないよう注意し、体が休みたいと発しているシグナルにはなるべく素直に従うようにしている。
ただ、実際に行っていることはとてもシンプルで、「起きたくなるまで寝る」ことである。これ自体の効果は、かなり覿面だ。もう4日も、ひたすら寝れてしまっている。
これは今まで溜めてしまった莫大な睡眠負債のせいなのか、元々僕はロングスリーパーであるというだけなのかは分からないが、しばらくめちゃくちゃ寝れている。
朝の散歩や筋トレなどのルーティンも、最近は割とサボりがちなのだが、今はその体力さえ心身がケチっているという兆候と捉え、大人しく回復優先に割り切っている。
終わりに。
今の自分にとって「ストレス解消」というより「リチャージ」という表現のほうが正確だ。だから、時折、その観点から、自分の過去を振り返っている。
これまでは「何をしたら気が晴れたか」を念頭に置いていたが、今は「何をしたら回復したと思えたか」というのを念頭に、学生時代を中心に記憶をたどっている。
すると例えば、掃除をして綺麗になった部屋で寝ているときとか、2時間以上昼寝をしたときとか、そういう記憶が次々と思い起こせてきた。
ケアを優先する生活を始めて、既に体がかなり楽になってきたのは感じるが、それでもまだまだ、ボロボロな状態には違いないように思う。
心身のリチャージがある程度済んでから、徐々に面白いことに手を伸ばしていこうと思う。参考にされたし。では今日はこの辺で。