精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕は何をすると”リチャージ”できるのかを紐解く。

前にどこかの記事で書いたが、僕は「ストレス解消」という言葉の定義を、最近は更新しようと努めている。

 

僕にとってそれは「エネルギーの消費を伴うもの」であり、そもそものエネルギーが枯渇しているときに採用するには、ちょっと時期尚早な術に思えているためだ。

 

例えて言うなら、風邪が治ってすぐに温泉旅行に出かけたり、または骨折が治ってすぐにサイクリングに出かけたりするようなものである。

 

今はまだまだ、その前段階、すなわち僕にとって完全にオーダーメイドされたリラックスの術の解像度が低いのをまざまざと感じている。

 

だからせっかくなので、ガッツリ時間を取って、ChatGPTと一緒にその辺りを深めてみた。今日はそんな、完全に自分向けの備忘録である。

 

 

過去の自分の方が秀でていたという前提で学ぶ。

 

6月以降、僕は自分のケツを自分で蹴り続け、娯楽を全て誘惑とラベリングすることで、”疲れ”を徹底的に誤魔化し続けてきた。それは確かに機能し、爆発力を生んだ。

 

しかしそこから3ヶ月を経た今、これがいわゆるバーンアウトなのか、それともまた別の何かなのかわからないが、体感として明確な不調を感じている

 

身体は怠く重く、気持ちにハリが戻らない。何をしていても楽しいという気持ちはさほどわかず、集中力も大きく落ちた。色んなことに気が散るのに、何にも集中できない。

 

車で言うなら、一定以上の速度に上げたいのに、完全にガソリンが枯渇しているようなものだと思う。今僕の中には、感情を湧き起こすためのそれさえ、不足しているのだ。

 

しかも、気持ちが急いているのか、こうしている今も時折アクセルを踏み込んでいるような感覚を覚える。ちょっとでもガソリンが溜まったら踏み込み、また空になる。

 

エネルギーは枯渇しているのに、心身が緊張している。しかもそれは、度を越している。毎日8時間以上寝るようにしているのに、全く満ちてこないほどに。

 

では、過緊張にある心身をくつろげさせ、そして空っぽになったタンクを満たすには、どうすればいいのか。そのヒントは多分、過去にあるのではないかと思っている

 

というのも、今はYouTubeをはじめ、自分の内観を乱すノイズが非常に多い。ショート動画を観ていれば、時間は過ぎるし考え事も霧散するが、満たされる感じは無い。

 

いわば誤魔化すためのツールが膨大に溢れた今となっては、”その中から”自分を回復させる術を探すという構図自体が、どこかズレているような気がするのだ。

 

実際、そういったツールが無かった頃の自分の方が、今よりも日々疲れていたのかと考えると、年齢によるものもあるが、それは明確に否定できる

 

当時は、YouTubeこそあったがショート動画は無く、LINEやFacebookもこんなにレスポンス早くやり取りする必要性は、全くなかった。なのに僕は、割と年中穏やかだった。

 

だから、丁寧に過去を掘り返し、あの頃の僕からしっかりと学ぶことにした。自分が残したmixiの記事も参考にしながら、あの頃はどうやって回復していたかを思い出した。

 

以下、そのまとめを詳述する。

 

僕のリチャージに必要な四要素を紐解く。

 

何度かやり取りをしていくうちに、僕が「くつろげた」と感じるときは、以下の4つの要素が少なくとも1つはクリアできているという仮説が立った。

 

静かな自然で一人活動

 

工夫や探求を形にする

 

親しい友人と小さな企画を一緒にやる

 

非日常を意識的に入れる

 

この観点に立つと、すごく「確かに」とも思う。実際、昔車で事故ったことがあるのだが、その数日後の僕は、とある神社をぶらぶらと散歩したという日記を書いていた

 

擦り減った精神を、豊かで情緒あふれる自然の中で回復させ、そこで得た感覚を日記という形にまとめ、クローズドなコミュニティにシェアする

 

また、神社とは身近にして、非日常的な場所でもある。そう考えると、僕のこの行動は上記の要素の4つ全てを満たしている。実際今でも、神社を歩くのは好きなくらいだ。

 

他にも心当たりは山ほどある。当時は一人でのめり込めるオフラインゲームに首ったけだったが、それもまた非日常へのダイブと考えたら、意味合いが変わる

 

今と違ってブログはやってなかったが、mixiの日記は割とマメに更新していた。文章に書いて一つのアウトプットをすることは、やはり好きだったようだ。

 

友達と遊ぶのも好きだった、というか、ある意味一つの日常だった。腐れ縁のヤツと思い付きで、50㎞先の遊び場まで車を走らせたことも何度あることか。

 

そして僕は釣りが趣味なのだが、そのときほど心を空にして、全身全てで自然を感じられる時間は無いとさえ思う。時には自然に自分が溶けたような感覚にさえ至る

 

一人、または気心知れた友人と、自然や非日常の空間に身を晒し、そこで得た感覚を言葉にまとめて形にする。これが僕にとっての、最高の回復のようである。

 

・・・というところまで書いて、今の僕に”深刻に不足しているもの”が浮き彫りとなってきた。そしてそれこそが、今の燃え尽きを立ち直らせるカギになるかもしれない

 

最後の項では、その気づきをなるべく赤裸々に、言葉へと落とし込んでみよう。

 

今の僕に”無い”もの。

 

今の僕に深刻に足りないものは2つ。まず1つは、非日常感だ。これは何も、スリルのようなものは意味しない。日常と仕事、公と私に、何の区切りも無いことである

 

家にいても、仕事の連絡が飛んでくることはままある。それだけじゃない。家にいても、”〇〇をしなければ”という義務感によって、例えば勉強や筋トレをすることがある

 

常に何かに気を張っているという意味においては、今の僕は全く切り替えができていない。常に何かに対し、「こうであるべき」というものを自分に当ててしまっている

 

家に帰っても、不思議と寛げる感じがしない。だがこれは、既に原因に気づいている。単に部屋が散らかっているせいだ。

 

僕は昔から、そもそも大量の刺激に弱いため、整理整頓はさておき、目に見えるアイテムは少なければ少ないほどいいと思うタイプである。

 

現状はある意味、家にいても職場に居ても、常に”刺激に晒されている”という意味では完全に同じだ。だからしばらく、家の掃除を徹底して行うことに決めた。

 

そしてもう1つは、これはすぐすぐの解決は不可能だが、いくら何でも交友関係がなさすぎることだ。

 

詳しくは言えないが、貴重な交友関係は1つ、来年のどこかでまた消えることがほぼ確定している。友人は次々と結婚した。そうでないものも、遠方へ転職をした。

 

気心知れた友人とであれば、僕はその時間を慈しむことができる。その心のバリアを解除できる人が、次々と僕の周りから去っていっている。

 

年長者には率先して気を遣い、一方で若輩には気を遣わせないように気を遣う僕だ。人と会うだけで消耗して行くほどの内向性の持ち主である僕を待つのは、つまり孤立か。

 

くつろぎの術を模索していたら、最悪の未来が透けてみえたのはなかなかに救いが無いが‥それもまた、今後の課題ということで捉えておきたいと思う。

 

終わりに。

 

とはいえ、今回の自己分析は面白かった。再掲すると、僕の回復の必須条件は以下の通りだ。

 

静かな自然で一人活動

 

工夫や探求を形にする

 

親しい友人と小さな企画を一緒にやる

 

非日常を意識的に入れる

 

これらを心掛けて、かつ自分の起床にあっていそうな行動を選べばいい、と。今日はとりあえず、特に不足している非日常感の内、芳香剤購入と掃除を頑張ろうと思う。

 

友人とかその辺は、そのあとの話だ。もちろん人に言わせれば、「だからこその彼女でしょ?」という提案を頂けるかもしれない。

 

しかしながら、強い性嫌悪とアセクシャルのせいで、彼女というのを欲せない自分の特性を考えると、それは非現実的だ。この定めは、少しだけ呪いたい気持ちもある。

 

―皆様も、最近の自分のリラックスにどこか疑問符が付くのであれば、過去の自分が何をしているときに癒しを覚えていたか、思い出してみるのも大切だと思う。

 

その効果と学びの多さは、僕が請け負ってもいい。それくらいいい時間であった。では今日はこの辺で。

 

 

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