精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

自分こそ自分を一番理解できている・・のは、半分正解、半分間違い。

自分を一番理解できているのは自分である、という自信を持っている人は多い。それこそ【金閣寺】の主人公も、物見遊山の辺りでそんなことを言っていた。

 

これに関しては僕もそう自負しているところがある。僕の分人の中でも、対外的なところだけを見て僕を評価する人が居ても、全く嬉しくないのはそれが理由だったりする。

 

僕にしか見えない、水面下の氷山の部分は、我ながら闇で覆われている。そこまでひっくるめて僕を総体として魅力的と思う人は何かがおかしいと、どうしても思うのだ。

 

これ自体も一つの自意識過剰という自覚はあるけれど、とはいえ以下の有名な図を見ても解るように、氷山はあまりにも巨大で、僕の意識が未到のところも絶対にある。

 

実際未だに、僕が僕の摩訶不思議な生態を発見し、それに驚くこともしばしばだ。その度に、自分こそ自分を一番理解できている・・のは、半分正解、半分間違いだと思う

 

今日はそんなことをテーマに、記事を書いてみようと思う。

 

 

 

僕は”諸行無常”を信じている。だからこそ。

 

なぜ、”半分正解、半分間違い”だと思うのか。それは、人間は常に、良くも悪くも更新され続けているためだ。

 

実際、昨日の僕と今日の僕とでは、見た目や思考、知識量を比べても、さほどの違いは無いだろう。だがそのスパンが、もっと長尺になればどうだろうか?

 

例えば高校生の頃の僕にとっては正解と言えた考え方も、34歳になった今の僕に当てはめると、むしろ猛毒として作用するかもしれないのだ。

 

実際、高校の頃は「彼女ができれば、社会的魅力を得られて幸福になれる」と思っていた。そのために大量の時間と金を溶かし、今思えば無駄な努力を重ねたと思う。

 

しかしながら、それらの試練?を経た今では、「そんな存在も社会的魅力も、僕の幸福にはあまり関係ない」と納得している。

 

これは高校生の頃の自己分析が間違っていたというより、段々と自己理解が深まり、更新が進んだ結果、僕にとって無理が無い価値観に着地しただけ、という気がする。

 

スタンダードな価値観を突き詰めてみても、自分がさほど幸福を覚えないことを実感し、「ならこの場合はどうか」をあれこれ試す日々を重ねた結果、今に至った。

 

この構図を指して、あの時の僕が間違っていて、今の僕こそが当時から追うべき正解そのものだった、と結論付けるのはちょっと酷い気がしてくる。

 

自己理解”できている”というのは単なる”状態”であり、継続するものではない。一度”わかった”と思えても、それは次第に”ちがう”へと移り変わっていく。

 

僕は諸行無常を信じている。だからこそ、自分を理解できたとそのときは思っても、明日もそうとは限らないと、極端に言えばそう捉えている。

 

人生は凡事、自由研究であれ。

 

自分の中にはまだまだ、理解できない、認知できていないメタ同士の繋がりがある。それを最近強く実感する出来事があったので紹介したい。

 

僕はずっと、「シャワーを浴びていると、なぜか気が急いてイライラしてくる」という謎の悩みを抱えていた。

 

具体的には、頭や身体を洗っている最中に、「出社したらあれをしないと・・」という準備から始まり、「あのときの電話は流石に理不尽だよな!」という怒りに展開する

 

それがどんどん有機的に分散し、広がり続ける。だからこそ、シャワーを浴びているとそれだけで、僕の頭の中は取っ散らかり、洗った髪を搔きむしりたくなるのだ。

 

これを改善するために、色々と試した。例えばシャワーが当たる感覚や水温に意識を向ける。瞑想の練習と思い、心の中に集中する、等など。

 

しかしどれもこれも効果が無く、これは付き合うしかないと諦めていたのだが…あるとき本当に何気なく、その解決策が見えたのだ。

 

それは、洗髪中にシャワーを止める。それだけだ。たったそれだけなのに、頭の中に無駄な反芻思考が湧くことがほとんどなくなり、平和に身体が洗えるようになったのだ!

 

・・仮説として、シャワーが流れる「サーッ」という音は、結構なアップテンポである。聞いているだけでどこか気が急いてくる感じが、確かにする。

 

そういうテンポの速い音が、僕の中で焦燥感を想起させ、それに紐づく全く関係のない記憶や未完了のタスクを連想させ、ポップアップさせていた・・のかもしれない。

 

実際、例えば何かしらの作業をしていて、ゆっくり手を動かしてじっくり進めたい際に格闘ゲームの音楽などを聴いていると、イライラしてくるという感覚はあった。

 

とはいえそれが、シャワーの水音にも適応されるというのは、完全に予想外だった。自分の中のトリガーというのは、思った以上に普遍的なんだと改めて思えた。

 

自分こそ自分を理解できる、というのは大枠では確かに間違いではない。だが、自分は常に更新されるし、まだ辿り着いていないメタ同士の繋がりは、絶対に隠れている

 

そう思えば、人生は凡事、自由研究であるというくらい、自己観察の目を常に向けている方が、処し方として楽しく有意義なんじゃないかなと、やはりそう思えてくる。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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