精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

なぜ「思い出」を体験すると、僕の胸は張り裂けそうになるのだろうか。-後編

これは昨日の記事の続きに当たる。乱暴に要約すれば、過去繋がりがあった人たちと再会し、旧交を温めたところ、後日猛烈な切なさに見舞われた、という話だ。

 

あの頃をそのまま再現したような時間に抱いたこの“切なさ”を改めて掘り返すと、見えてきたのは今の自分が強固なまでに隠してきた“寂しさの根っこ”にも見える。

 

この寂しさの根っこを探っていくと、それは時間そのもの──“もう戻れない”という事実に直面したときの痛みと深く結びついているように思う。

 

一体それはなんなのか、それを突き止めた先に何があるのか。もしかしたらこの問いの先に、「僕はどうしたいのか」という根源の欲求が見えるかもしれない

 

思い出を辿りながら、そこに到達できれば素晴らしい。そう思いながら、今日も自分の内面を、ひたすらに見つめ直していく記事である。

 

 

もう二度と戻れないと”解っている”時間。

あの日々は愛しいと同時に、もう一つ分かっていることがある。今の僕は、二度とその住人には戻れないということだ。

 

年齢を重ね、学生でもなくなり、見知らぬ後輩が増えて、同級生は減り、結果あの頃を共有した人は、どんどんと僕の周りから減っていってしまっている。

 

状況は大きく変わった。さながら、子供の頃に遊んだ公園が取り壊されて、新しい家が建ったあとに、それを見て、かつて過ごした日々を思うようなものだ。

 

もちろん、あの日々が完璧だったとは決して思わない。今も今であの頃以上に楽しいときもあるし、だからこそ見える、あの日々の欠点もある。

 

だが、もう二度と過ごせないというその一点だけは、僕の胸にたまらない切なさを湧き起こさせる。それこそ、僕の内面から、胸の辺りを引き裂きそうな力を持っている。

 

今僕は、何かに疲れているとはさほど思わないし、誰かに、何かに甘えたいとも思わない。積極的に過去に浸りたいとも、美化したいとも、実は思っていないのが本心だ。

 

だが偶然の出会いでこそあれ、同じ時間を過ごし、記憶を共有した人たちとその記憶は本当に尊く、貴重だ。だがそれらの痕跡は、この世からどんどん失われている。

 

大事にしたいという想いがある一方で、それらは否応なく変化し、やがて失われていく。理解しているのに、心がどうしても受け入れを拒む。

 

張り裂けそうなこの想いは、僕の中の“羨望”と“納得”が同時に存在しているからこそ生まれるのだろう。それは奇妙だが、同時に、確かに腑に落ちる感覚でもある。

 

しかし僕は、”過去を恥の歴史とも考えて、少なからぬそれを忌避”している。甘えもまた同様である。

 

しかし僕は、過去を“恥の歴史”とも捉えており、少なからずそれを忌避している。甘えについても、同様である

 

一番折り合いが難しいのは、過去の日々に埋め込まれた“恥”の記憶が、逆説的に現在の自分を形作っているからこその、否定も肯定も衝突するという構造だと思っている。


“恥”とは、かつての自分への強い否定と嫌悪であり、同時に、それがあるからこそ今が成り立っているという側面もある。

 

例えば、酒席で酩酊し、迷惑をかけた記憶。勘違いして告白をしてしまった記憶。自分には分不相応な場で出会いを求めようとした記憶。心ない一言を言ってしまった記憶。

 

それら一つ一つは、決して愉快なものではない。だが同時に、それらは“重要な”記憶でもある

 

ときおりふと蘇るからこそ、今の僕は恥や失敗を避けようとし、同じ過ちを繰り返さないようにできている。それは、“甘え”についても同じだ。


僕は心の底から、自分が預かる場で起きたトラブルの尻を拭くのは当然だと思っており、苦しい思いをするたびに、どこかに正しさを感じている。

 

少しでも楽で、傷つかない方を選びそうな自分が顔を出すと、メタがすぐに引っぱたいてくる。過去の記憶を引き合いに出しつつ、「あれを繰り返したいのか」と詰ってくる。

 

今の僕は、過去の否定と、“恥”や“甘え”への嫌悪によって形づくられている。それは確かに事実だ。だからこそ、過去を受容することに、僕は不安を覚える。


受け入れた瞬間に、これまで自分の芯を支えてきた警戒心や緊張が、消えてしまう気がする。無条件にあの頃の自分を受け入れることに強い抵抗があるのは、それが理由だ。

 

あの頃の安心や安堵、信頼に戻ろうとすると、どこかから黒い腕がいくつも伸びてきて、僕を頑なに引き留めるような感覚がある。

 

戻りたい気持ちと、戻ってはいけないという気持ち。その二つが相反する力を、絶えず僕の心に加え続けている。こんな状態で、果たして出せる答えなどあるのだろうか。

 

終わりに:今の僕に、過去の記憶を迎え入れるために要るキーワードは・・

 

総括してみると、もう戻れない過去が愛しいというより、あの頃に確かにいた“何も意識せずに発露していた自分”に抱く、愛憎入り混じる感情が根底にあると思えてきた。

 

一方、現在の僕はどうか。常に仕事中心で、言動の逐一を意識し、求められる作業に従事し、突き抜けるための努力に取り組み、それ以外の要素を次々と捨ててきた。

 

2025年で完全な休みを取得した日数は、振り返れば二十日に満たない。そこまで集中したい気持ちも嘘ではないが、それを前提にすると、過去への憧憬は邪魔でしかない。

 

仕事を入り口に、過去の恥や後悔を消すために、甘えさえ振り切って我武者羅にやってきた。それがようやく板についてきたのが、今の僕のはずなのだが――。

 

その結果、むしろ過去と現在のコントラストがいっそう強まり、過去の自分への羨望が強まったのは皮肉なものだ。

 

“あのときの僕”を今の自分に迎え入れることは、本当に不可能なのだろうか。もしそれができるとしたら、一体何が今の僕に必要なのか。

 

人は誰しもが、関係性の中で生きている。僕は独りでいるときの僕でさえ、仕事の分人が大きく影響を与えていることを認めざるを得ない。家に居ても仕事が気になる。

 

だが例えば実家にいるとき、縁のある人と一緒にいるとき、あるいは物理的に遠い場所へ出かけたとき、仕事への意識は霧散し、消え、沈黙する。

 

関係性なのか、場所なのか。とにかく仕事の分人は、条件によっては完全に隠れることがあるらしい。その条件そのものが、今の僕の暮らしには足りていないようだ。

 

ただ問題は、“あの頃の僕”をそのまま召喚すると、憎悪の感情まで一緒に立ち上がり、嫌悪を覚え、そして後になって反動で非常な辛さを感じてしまうことにある。

 

愛しいと同時に、殺したいほど憎い。白状すると、過去の嫌な記憶がふと家で想起されると、つい「あの頃の俺を殺したい」と、自分に対して思ってしまうことがある

 

これらの相反する感情を、「それも含めて一つの思い出」として包み込むには、何が必要なのか。そのキーワードは、内省を深めた今、はっきりと見えてきた。

 

それは、「赦すこと」だ。僕が過去を祝福できるようになるためには、自分を“赦すこと”が鍵になると確信している。

 

実際、僕は自分をほとんど赦せていない。過去の嫌な記憶に触れるたび、終わったはずのことを何度も断罪したくなり、過去に戻ってやり直したくて仕方がなくなる。

 

「あの頃の記憶があるから今がマシ」と言えればまだいい。だが実際には、「あの頃やらかしていなければ、今頃もっとマシだったのではないか」と思えてならない


僕は、過去の自分の“せいにしている”。この構造から抜け出さない限り、僕は永遠に過去を祝福できない。安らぎと信頼の分人を純粋に生きることはできない。


引き裂かれる痛み無しには、何も思い出せなくなってしまう。その状態でこれからも生き、やがて墓の下に埋まるのは―それこそ、一番寂しい生き方ではないか。

 

僕が僕を赦すには、どうすればいいのか。喫緊の課題が、見えた。

 

しかし、山頂だけがくっきり見える巨大な山と相対した気分とまったく同じで、そこに至るプロセスは全く見えてこない。新しくも強大な問いの入り口に立ったようだ。

 

それについてはまた別の記事で、時間を割き、向き合いたいと思っている。今は、その入り口に立てただけで十分だ。

 

では今日はこの辺で。

 

 

 

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