精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「赦す」とは何か。

「赦す」とは何か。過去の自分を強く想起するような時間を先日・先々日と設けて以来、そのことをずっと考え続けている。

 

なぜならそれこそが、過去の僕が積み重ねてきた思い出・安心・安堵・充実と、罪の意識・恥の記憶を融和させる、最たる鍵であるというのが暫定解だからだ。

 

この「赦す」ことを経ていないせいで、僕は過去の愛おしい記憶ごと、繰り返してはならない「罪・恥・甘さ」とイコールで結んでしまっている。これは実に悲しい話だ。

 

この記事の中でどこまで達成できるかは未知数だが、「赦す」とは何かについて、何かしらの答えが得られるまでは掘り下げ続けてみたいと思う。

 

では行こう。

 

 

そもそも「赦す」とは何かを、語源から考え直す。

 

こういうときのルーティンは決まっている。語源を調べることだ。日本語・英語の語源を知ることで、思索が進むためである。

 

ところで「ゆるす」という読みを当てる漢字は「許す」と「赦す」の2つがある。どちらの方が合っているのだろう。

 

サッと調べたところ、「許す」は許可であり、「赦す」は過去の罪や罰を責めないこと・清算することとある。だからこの記事では「赦す」の方を一貫して用いていく

 

そして英語の方を、英英辞書をもとに調べていくと、"forgive”が僕の言わんとする意味に最も近いような気がした。だからここに紹介する。

 

to stop blaming or being angry with someone for something that person has done, or not punish them for something:

 

訳:既にされてしまった事柄について怒ったり非難したりするのを止めること。あるいは、何かについて人を罰しないこと。

 

さて。この意味自体は別に疑問を挟む余地はないのだが、ここで”forgive”という英単語に、「与える」を意味する”give”が含まれるのはなぜか、気になった

 

なぜ英語圏においては、赦すことの中に与えることが含まれているのか。それについて調べていると、ある素敵なnoteに出会った。

note.com

 

素晴らしい記事なのでぜひ全て読んでみてほしいのだが、その中で特に心揺さぶられる感覚を覚えたのは、以下の部分だ。

 

giveを超えたgive。
本当の許しとは、惜しみなく、完全に与える、ということだ。

 

与えることを続ける、ということ。
過去に起きたことの全てを許し、その人との関係を続けることを選択する。


恨むのでもなく、妬むのでもなく、与える側になるという選択をするということ。
何があろうと、全てを与える、与え続けるということ。

 

その意味を心で理解したのはラオスだった。

 

 

・・・この記事にもある通り、「赦す」とはとても能動的で、意志の強さを感じる構え方だ。憎しみや恥、罪の意識に対し、別の意味を”与え”、解釈を変えること。

 

ここまで考えたときふと、「手放す」という言葉が頭に浮かんできた。仏教哲学にもあるヒントである。そこでもやはり、”憎しみ”は手放すべし、という教えがあった。

note.com

 

そのためにも、まずはそれらに囚われている自分を認知し、俯瞰する必要がある。罪・恥・憎しみに揺さぶられている”自分”を瞑想と観察で取り戻すということか。

 

となれば、整理が進む。心を中庸に整え、自分を冷静に俯瞰することで、罪・恥・憎しみを一旦手放し、別の意味合いをそこへ”与えて”、解釈自体を大きく変えていくこと

 

これこそが「赦す」という行為の本当の意味合いなのだとしたら、できそうに見えて、まだ何かが足りないような気がしている。

 

そう思って引き続き仏教の説話などを読んでいたのだが、ここでまた別の、そしてもしかしたらさらに大切かもしれないキーワードに辿り着いた。

 

それは「感謝」である。どうやら、「赦すこと」は「感謝すること」と一対になっているようだ。そして僕は、「感謝」の理解がまだ全く足りていない

 

だから続いては、この「感謝」という言葉を切り口として、「赦す」という言葉の別側面を見つめていきたいと思う。

 

【感謝】とは何か。

 

「赦す」ことで自分を解放する。そして「赦す」とは、forgiveという英単語にもある通り、”なにか”を与えることでもある。それによって恥や罪を浄化する。

 

では、何を与えることがそうなのか。その際に説かれていたのが、「感謝」であった。これは「愛」と言い換えてもいい。

 

考えたことがあるようで、実際はなかった、この言葉。『「感謝」とは何か』と素直に打ち込んで、出てきた以下のブログを読んで、目が覚めるような感情を覚えた。

note.com

 

特に、本当の「感謝」とは”するもの”ではなく”溢れるもの”という言葉に強く共感した。この世に当たり前などない。それに気づけば、感謝は自然と、心に湧いてくる。

 

そうやって共振した自分の心を感じ、そのことに対して言葉を射る。「感」「言」「射」が繋がって「感謝」となるという説を、僕はすごく自分に取り入れたいと思った

 

思うに僕は、”たまたまの巡り合わせで現出している”この世に対し、それが存在していること自体が奇跡であるという可能性を、どこまで感じていただろうか

 

ここである言葉を思い出した。三浦梅園という人が残した言葉だというが、「当たり前」として見ている事象がそうではないことに、端的に気づかせてくれる。

 

枯れ木に花咲くに驚くより 、生木に花咲くに驚け

 

・・今の僕が在るのは、本当に奇跡の産物だ。それ自体が稀有な話であり、それに対して査定や評価をもって優劣をつけるなど、本来は愚かなことなのだと思わされる。

 

美人に生まれようと、金持ちに生まれようと、有名大学を出ようと、四肢のどこかに麻痺があろうと、それはそういう縁が、今たまたま、現出しているだけ。

 

それらが明日も続く保証はどこにも無いし、逆に今の不幸が巡り巡って、自分の人生を非常に豊かにしてくれる可能性もあるわけだ

 

そう思えば、僕の罪や恥に対する意識も変わってくる。その記憶は当時の僕から見た正解であり、善である。結果を知っている今から見た評価が、罪や恥に過ぎないのだ。

 

それらが僕の中に残っているおかげで、今僕は、それらの愚行を人にしなくなっている。だがそのために、過去を頑なに否定する必要性は、どこまであるのか。

 

こう考えると、僕が不必要なまでに力んでいたように思えて、逆に肩の力がスッと抜けるような気がした。

 

赦すとは、心を軽くする言葉を感じ取り、矢のごとく真っ直ぐに伝えてあげることではないか。

 

赦すとは、心を軽くする言葉を感じ取り、矢のごとく真っ直ぐに伝えてあげることではないか。・・という章までを、実は前日に書いていた。


だが帰宅して寝床に入り、目を閉じた瞬間に、本当に天啓というべき閃きが訪れた。その驚きたるや、思わず目が覚めたほどだった。

 

「赦す」とは、あらゆる出来事の偶然性を認め、「当然である」という思い込みを取り払い、自然と湧いて出た“感謝”を与える、または伝えること

 

この定義で、大枠は間違っていないと思う。だが、どうにも具体が足りない。そう感じて漠然と考えていたときに、それはやってきた。以下、整理しながら説明していく。

 

「赦す」を体現しているのは、どんな人か。考えてみると、それは「怒りや憎しみに囚われることが無い人」であり、同時に「周りに良い影響を与える人」だと気づいた。

 

具体例として適切かは分からないが、僕の頭に真っ先に浮かんだのは、あらゆる悩みをポジティブに翻訳して見せる、ゲイバーのママの言葉だった。

 

「仕事に行きたくない」と愚痴る客に、「そんなにきれいな顔しているのに、みんなに見せたいと思わないの?」と返す。そんなショート動画を観たのだ。

 

復讐を経ずに「赦せる」人は、やはり解釈が上手い。もっと言えば、翻訳に秀でている。その人の心に巣食うものを、見事にポジティブな言葉に言い換えてくれるのだ。

 

ここまで考えたときに気づいた。「赦す」とはすなわち、憎悪の感情しか抱けなかった記憶に、より建設的で快い意味や解釈を“与える”ことではないだろうか

 

その辛い記憶があったからこそ、今の自分の人生にどんな“良い影響”が与えられたのか。悔しいという感想以外に、他の見方は本当に抱けないものなのか。

 

言葉をそれに射かけることで、その観点から過去の嫌な記憶を見つめられるようになれば、その先に待っているものこそ、「感謝」なのではないか。

 

ここに辿り着いたとき、僕の中ではっきりした。「赦すこと」と「感謝すること」は、順序立てた段階ではなく、実は同じことを示しているのではないか、と。

 

・・他人はまだしも、自分に優しくするような行為や言葉を、僕はどうしても「甘え」だと感じていた。だが、それはあまりにも単純な捉え方だった。

 

本当に憎悪以外の解釈ができないのか。もしかしたら、そこにポジティブな何かの種が眠っているのではないか。そうした広く自由な思考を、“自分に”思い出させること。

 

「赦す」の意味を、今しっかりと更新できたと、はっきり納得できている。

 

終わりに:僕の恥や罪よ、本当にありがとう。

 

自分の中に、赦し難い過去や人格を抱えているキャラクターを、様々な作品で見る。だれしも、折り合いのつかない存在や記憶を抱えていることがモデルなのだろう。

 

この記事を書いていて気づいたが、作品内で、顕在意識とそれらの過去・人格が和解するときには、必ず儀式が行われている。それは「互いに受け入れる」ことだ。

 

対立した個として存在していた二つが、一つにまとまっていく。そんな場面を何度も見てきた。それは言葉のやり取りだけのこともあれば、抱きしめ合うこともある。

 

ふと思った。僕はこれまで34年を生きてきたが、思い出せる記憶を映像に起こしても、せいぜい20時間にも満たない気がする。


しかし34年を時間に換算すると、20万時間を超えるという。では、残りの19万9980時間はどこへ行ったのだろうか。

 

ほとんどが思い出にもならず消えていく中で、僕が「罪」や「恥」と呼んでいる記憶は、残っているだけで奇跡なのではないか

 

僕は仏教の「空」の考え方が好きだ。それに従うなら、今の僕はこれまでの僕が経験してきたことすべての結果であり、総体だ。どれが欠けても、今の僕にはならない。

 

それ自体を「だから何だ」と切り捨てることもできる。だが同時に、「その存在を慈しむ」こともできる。僕はどちらで在りたいか。答えは明白だ。

 

どんなに辛い記憶でも、今の僕を構成する一部に変わりはない。自分の顔が嫌いだといって、それを取ってしまえば僕は死ぬ。全て揃って、初めてひとつなのだ。

 

そんなことを考えていた矢先、先日の集まりではっちゃけすぎた僕を面白がるLINEが届いた。恥ずかしく、同時に情けなくもあったが、そのラベルを記憶に貼るのはやめた。

 

「あの時間は本当に楽しかったです!!」

 

とだけ返した。そして、本当にそう思っている。周りに迷惑をかけたかもしれないが、そんな僕だってきっと、知らないうちに他人から迷惑を被っている。

 

この世は曼荼羅のように繋がっている。僕がかけた迷惑は、必ずどこかで僕に返ってくる。なら、それでいいじゃないか。

 

もちろん積極的に迷惑をかけようとは思わない。だが、誰かの不幸を常に自分事として捉えるのが摂理なら、僕は毎日どこかの誰かの不幸を背負い、身悶えすることになる。

 

僕はもう、僕を「赦す」。恥や罪の裏にも、正義や楽しさが必ずある。否定したところで何も得られないし、ズボラさのない人間には深みも面白みもない。

 

もし次に集まりがあったら、「粗相をしてしまったね、ごめんなさいね」と潔く言う。そして綺麗に飲んで、丁寧に帰る。そう決めた。それで十分だ。

 

自分を罰する必要はもうない。全て含めて僕の愛嬌であり、深みであり、人間的魅力だ。同時に、落ち度でも伸び代でもある。それこそが僕を僕たらしめる部分なのだ。

 

今ようやく、僕の罪や恥を、僕として迎え入れる準備ができたように思う。なんてことはない。「あれは俺じゃない」なんて言わなければ済む話だったのだ。

 

僕の恥や罪よ、本当にありがとう。そして、これからもよろしく。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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