精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「あの頃はよかった」とは、すなわち‥‥。

昨日までのいくつかの記事を経て、過去との折り合いをつけるための考えを、我ながらかなり丁寧にまとめたと自負している。


その中で「自分がしたこと、人にされたことを“許す”意識を持ち続けたい」という結論には納得がいったし、それによって早速、現在の思考が改まっている点もある

しかし一晩経って、もう一つ気づいたことがある。それは、僕が覚える“過去への切なさ”の裏にある、もっと禍々しい面の存在だ。


その面をどう解決していくかの方が、むしろ自分にとっては非常に深刻で、かつ大切なのではないかと思っている。今日はそのことを書いてみたい。

 

 

そもそもなぜ、「あの頃"は"よかった」と思うのか?

 

まず、過去、特に学生時代のことを思い返すと、あの頃には「安心・安全・安堵・充実」のすべてが揃っていた。それは誇張でもなく、素直に認められる事実だと思う。

 

ただ、当時の自分はそのありがたさをまったく自覚していなかった。「その環境に包まれていること」自体に無意識で、当たり前のように過ごしていたためだ。


そして今になって初めて、あの頃がどれほど恵まれていたのかを理解した。なぜ今になって気づいたのかといえば、現在が”そうではない”からに他ならない


今の僕には、「安心・安全・安堵・充実」、そのいずれも、あの頃と比べれば相当希薄なものになっている。その事実を自覚した瞬間、ゾッとするような感覚を覚えた。

 

電話が鳴れば、仕事かクレームか詐欺かを疑う。少しでも気を緩めれば顧客が離れていくと緊張する。目の前で笑顔を見せている子も、契約が切れれば関係は終わる。

 

そう考えると、「あの頃が楽しかった」のではなく、「今がピリピリしすぎている」という対比構造のほうが、むしろ正確なのだと思う。

 

意識の中の僕は、四六時中仕事をしている。一年のうち365日のうち、340日は働いている感覚だ。10月も、満額休みは1日に留まる見込みである。

 

正直に言えば、家にいても落ち着かない。家にいると、なぜか“監視されている”ような気持ちになるからだ。完全にスイッチを切ることなど、夢物語に等しい。


職場まで車で10分もかからない距離に住んでいるので、何かあればすぐ呼び出される。対応もできる。その意識が常にどこかにあるせいで、遠出も気が進まない。

 

それでもリーダーとして成長したいし、もっと結果を出したいという気持ちも嘘ではないから、逃げずに受け止めようとずっと踏ん張っている

 

そうした緊張と葛藤の積み重ねで、安心も充実も削ぎ落とされてしまったのだと思う。「好き避け」みたいなもので、恋しさゆえに避けるようになっている気がする。

 

ここまで考えてみると、昨日まで書いていた内容は、いわば「対症療法」に近い。根本の原因は、今の時間軸そのものがつまらないことにあるのだと思う。

 

学生時代と比べれば、今の僕にはお金もあるし、時間を作ろうと思えば作れる。それでも、圧倒的につまらない。のびのびしている感覚がない。


一挙手一投足が誰かに監視されているような感覚がある。電話が鳴れば悪い知らせだと思う。言葉遣い一つで、人間性に上下が付くような感覚を常に覚える。


たとえキャンプをしていても、「どうせ仕事の連絡が入ってくるだろう」と心のどこかで思っている。楽しさが100あるとしても、最初から10程は“失われる前提”で削っている。


そんな思考の癖が、すっかり定着してしまった。それを自覚できた今だからわかる。「あの頃はよかった」という感情は、裏を返せば「今がつまらない」という現実の表れだ。


そしてようやくそのことに、真正面から気づけた。今”こそ”が退屈で、窮屈で、怖い。だからこそ、過去もそうだが、何より今を大事にできるように生きたいと改めて思う。


それが、昨日の記事で書いた“赦す”という意識の延長線上にあるのだとも感じる。過去に根を張る罪や恥を浄化できれば、自然と現在の解釈も変わるだろう。

 

それを目指して、また意識を前向きに保ちたい。それがこの切なさをいずれ溶かしてくれるのだろうと、僕は信じている。

 

では、今日はこの辺で。

 

 

にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村 ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村