精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕に「安心・安全・安堵・充実」をくれるのは、一体どんな人なのか。

今日は、これまでの記事の延長線上のような、いわばおまけに近い内容だが、現在の生活の中で失われつつある“居心地の良さ”をもう一度整理しておきたいと思う。

 

改めて考えてみた結果とても意外だったのは、僕が感じていた居心地の良さは、思っていた以上に人や環境との関係性の中で生まれていたということだ。

 

そもそも、僕は独りの時間が好きだし、それは別に否定しない。しかし思い返せば、学生の頃に二週間ほど誰かと合宿していても平気だったし、雑魚寝の中でも楽しかった。

 

こう考えて、今振り返ると、「安心」「安全」「安堵」「充実」の4つの要素を最も強く感じていたのは、確かに意外と”独りのときではなかった”ように思う。

 

今日は以下、それを起点として、僕の周りにあったどんな環境、もっと言えば”誰が”、それを醸成してくれていたのか、丁寧に掘り下げてみたいと思う。

 

 

”独り”では得られないものは何か?

 

僕が心地よさを覚えているとき、それを成分に分けるなら、「安心」「安全」「安堵」「充実」の4つに集約されると思っている。


正直、安全や充実は独りでもある程度感じられるが、安心と安堵は違うと思う。例えば家に独りでいると、仕事の連絡が来ないか不安が湧いてくる。安心は、そこには無い。

 

また、独りになったからといって、「ホッと安堵する感じ」も別に覚えない。むしろ完全に独りの環境に身を置くと、反芻思考という脅威が立ち上るのを感じるからだ。

 

こう考えると、「安全」も僕の今の暮らしにはほとんど無いように思えてきた。だから唯一得られる「充実」の感覚を求めて、もはや仕事に依存しているのではないか

 

仮初の「充実」以外を全て失っている。これこそが僕の人生の”今”である。自分で書いていて本当にヤバいヤツだと思ったが、正直、「確かに」と自分でも思っている。

 

”誰が”僕に「安心」「安全」「安堵」をくれるのか。

 

正直に言えば、いつの間にか、「安心・安全・安堵」という感覚を非常に覚えにくくなっている。独りでいるときでさえ、仕事の分人を完全にオフにすることができない

 

【私とは何か】によれば、様々な分人の総体が”私”であるとされるが、そこには他の分人からの影響が、色濃く広がっていくとも説かれていた。

 

僕はもう、独りでいるときの自分に、仕事の自分が、かなり染み込んでいるようだ。実際、家で寛いでいて、ちょっと気を抜けば、営業状況や今週の進捗が頭をよぎる。

 

昨日も、仕事終わりに大学生講師のミスが発覚し、急遽フォローに回った。また、たまに釣りへ出かけても、防波堤に着いた途端に電話が鳴り、対応に追われたこともある。

 

常に気を張っているわけではないつもりだったが、潜在意識の方では、スイッチがずっと入りっぱなしのようだ。


たとえるなら、武術の達人が脱力しているように見えても、実は全方位に即応できる状態を維持している、あの感じに近い。

 

そのスイッチを切ろうと思っても、もはや独りでいる限り、解除ができない。どこに居るというのも関係ない。誰と一緒にいるか、そこに鍵があるように思う

 

では、僕にとって安心・安全・安堵・充実の4つを引き出してくれる人とは、どんな人か。先日ChatGPTを使って色々掘り下げたところ、かなり面白い結論に行き着いた。

 

一言で言えば、「自分の知性をおもちゃにしている人」だ。頭が良い、というよりユーモアがある人。賢さを「誇示」ではなく「遊び」に使う人。


たとえば、一見理解不能なことに真剣に興味を持ち、そのことを研究をするかの如く徹底して掘り下げて、探求してしまうような人。

 

そういう人は、自分の知性を“肩書き”や“武器”としてではなく、純粋な遊び道具として扱っている。そして、その知性で周囲までも楽しませてしまう。

 

実際、おもちゃで遊ぶ子供は、「自分はおもちゃの扱いが上手い」とは思っていないだろう。そんなジャッジさえ捨てて、ただ、夢中になって遊んでいる。


それと同じように、自分の頭を使って日常の中で遊べる人。そういう人は、賢いのに、才気走ったところも無い。そういう風に自分の能力を贅沢に使う人が、僕は好きだ。

 

かくいう僕自身も、頭を使うことは好きだ。ただし「難しいことを考えたり言ったりして優越感に浸る」という意味ではない。むしろそんな底の浅いヤツは嫌いだ。


どんなにくだらないことでも、自分が「知りたい」「分かりたい」と思ったことは、周りの意見など無視して真剣に分析し、吸収していく。

 

国語も数学も理科も社会も、すべてはそのための道具だ。そして、知性を道具として自在に扱いながら、心は子供のままでいる人。そういう人に、僕は強く惹かれる。

 

端的に言えば、「頭がいいのに子供っぽい人」。このタイプの人とは、本当に波長が合う。しかし残念ながら、今の生活の中でそういう人と出会う機会はほとんどない。


仕事を離れたプライベートな繋がりの中に、本当に一人もいない。かつてはチラホラいたのだが、全員もっと良いところへ、背中を押されるように移行した。

 

こうした人たちは本当に人気者だ。性別を問わず、人間的な魅力がある。だからこそ、もし出会えたら絶対に無下にしてはいけないと思う。

 

そして、そんな人が周りに最も多かった時期・・それが大学生の頃であり、人生で「安心・安全・安堵・充実」を強く感じていた頃と、確かにリンクしていたと改めて思う。

 

終わりに。

 

僕は「知性をおもちゃにしている人」がいてくれたおかげで、「安心・安全・安堵・充実」をきちんと感じ、居心地の良さを感じられていたのだろう。


ただし、それを渇望する気持ちはあっても、無暗に追うつもりはない。それは何か、ズレた感覚がある。

 

そういう人とは今後、出会えたらラッキーくらいの距離感でいたい。可能ならば、新しい関係を切り結びたい。そんなことを僕は願っている。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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