前の記事で、僕は「デキる人アレルギー」という話を書いたのだが、それに関連する言葉としてたまたま【観察者羞恥】というものを知った。
【共感性羞恥】と意味合いも似ており、かつ誤用も非常に多いという指摘もあちこちで見られることから、これをきっかけに色々な謎が解けて面白いように感じている。

かつては「共感性羞恥」という言葉で処理していたが、改めて思い返せば「観察者羞恥」という言葉の方が適切じゃん、と思える記憶にもいくつか思い至った。
ということで今日はこの【観察者羞恥】について調べたものを、備忘録がてら記事にまとめておく次第である。
【共感性羞恥】とは何が違う?

まずはっきりさせたいのが、【共感性羞恥】との差異だ。これは乱暴に言えば、その場にいる誰が恥を感じているか、という点で区別ができる。
まず【共感性羞恥】とは、強い恥を感じている他者を見て、そこに居た堪れなさを”共感”する形で覚えることだ。
例えば先生をお母さんと呼んで、クラス中に笑われた友人を見たときや、またみんなの前で思いっきりコケて笑われた友人を見たときが、それに該当するだろう。
つまりこの際恥を感じているのは、見られている誰かと、見ている自分の二人なのである。だから”共感性”と呼ぶのだと思っている。
一方、【観察者羞恥】は、その行為・発言をしている人が”恥を感じていない”のに、それを”見た側が”恥ずかしいという感情を想起した際の呼称だと言える。
例えば公衆の面前で堂々といちゃいちゃするカップルを見た際は、こちらの【観察者羞恥】に該当するだろう。当の本人たちは、恥ずかしいなどと思っていないためだ。
そして得てして、僕が”恥ずかしい”とか”見ていて愉快ではない”と思うことは、この【観察者羞恥】によるものが大部分であると気が付いた。
【共感性羞恥】とは口で言いながらも、どこか納得感が欠けていたのは、実際はそうでなかったからという発見は、結構大きい。
ということで以下、続けて僕個人が抱くその感情について、丁寧に分析を進めていこうと思う。
※【観察者羞恥】の心の声を詳細に言語化している以下のブログ、この機会にぜひ一読されることをオススメする。
僕の【観察者羞恥】とは。

ここでは具体的に、僕が特に強く【観察者羞恥】を覚える対象について列挙してみる。人によってはまるで同意を得ないだろうが、別の人には刺さるかもしれない。
例えば前の記事でも書いたが、肩書と実績をこれでもか!と並べるプロフィールは、それがどれだけ立派なものであっても、見ていて何か、”恥ずかしい”と思う。
だが多分、そのプロフィールを書いた当事者は、実はそんなに深いことを感じていないか、あるいは「俺ってやっぱすごいよな」といった快の感情を覚えていることだろう。
そもそも、自分で恥ずかしいと思っているヤツは、そういうことは書かない。だが僕はどうにも、それこそロレックスを身に着けて悦に入るヤツと大差ないと思ってしまう。
仮に僕が東大を出て、TOEICで満点を取っていたとしても、それを僕という人間の紹介の前面に出すのは、マジで恥ずかしくて絶対にしたくない。それがなぜかは不明だが。
他にも見ていて恥ずかしいのは、アニメキャラのセリフを堂々と言ってしまうとか、街中で癇癪を起こす子供とか、ADHD気味の多動っぷりをしている人とか、様々だ。
また、ドラマを観ていてどうにも恥ずかしいという意見は、少数派ながらもネットで見られて、大体感じていることは僕と似ていた。そう、見ていられないのである。
ある人は「ストーリー上必要と分かっていても、登場人物が不幸になるシーンがあると思うと耐えられない」と書いていた。これも僕は、正直理解できる。
しかしそれ以上に、明らかに演じているという様子そのものがどうにも恥ずかしいというか、”何を見せられているんだ?”という感覚を、僕は正直、覚えてしまうのだ!
あまりにも意味不明かつ主観的なのは認める。だが、これらの感想は段々改善しているとかそういうことは全くなく、むしろ年を追うごとに酷くなってきているのが現状だ。
それにしても、一体何が原因だからこそ、観察者たる僕にここまで強い恥の気持ちが湧出してくるのだろう?これは絶対に、潜在意識のどこかにトリガーがあるはずだ。
続いては、さらに次の問いに繋がる形で、なるべく手短にその心当たりを探り、まとめて、終わりとする。
終わりに:【恥】とは何か。

そもそも、「恥ずかしい」とは何なのだろうか。これは意外と、分かるようで分からないというか、全く取り留めもない感情のように僕は思えている。
昔どこかのブログでそれをがっつりまとめた記事を書いたような気がしたが、検索しても出てこなかったので、改めて簡単に調べたことをまとめたい。
ひとしきり調べてみたが、恥とは嫌悪・怒りが混在した、主に自分の言動に対して自分のメタが下す悪感情の一つ、という意味合いでよさそうであった。
―となると早速、「ではなぜ他人の言動に恥を覚えるのか?」ということとの矛盾を感じるが、実を言うと、僕が他者に恥を感じる際の矛先は、少しだけズレている。
大体の場合、その行動を観た際、”自分がそれをしている(あるいはしていた)記憶が強く想起され”、それに対して抱くのが【恥】なのだ。
つまり、僕が他人に対して「恥ずかしい」という感情を抱くとき、それは自分が過去にやってきたことの内、今思えばとても恥ずかしかったと思っていることなのだ。
実は先述の、僕が嫌悪・羞恥を覚える他人の言動は、主に幼くて無知だった頃の自分がやってきたことでもある。
ぶっちゃけ、そんなことなど「子供なんだし、しゃーねーじゃん」で済ませればいいはずなのに、なぜか年齢を重ねていくにつれ、沸々と赦せない感じが強まっている。
このあまりにも病的にシビアな自分への断罪は、不健全なラインに達している・・ということは過去何度も書いた。書いてはいるが、それが何かの解決になった気はしない。
過去自分が通った道なのだからと、温かく見守るのが大人だと分かる。だが僕は、例えば目の前で無駄な行動をしながら話を聞かない子供を見ると、すごくイライラする。
その許しがたい行動がなぜそうなのかを紐解くと、やはり出てくるのが過去の自分だ。僕がやってきて、怒られて、その当時に悪いことと気づけなかったことが腹立たしい。
そして先ほどの指摘の通り、恥とは、嫌悪と怒りが混ざった感情というのはすごくしっくりくる。
しかもその2つが合算して100なのではなく、掛け算として影響し合い、結果すごく強い嫌悪に進化している感じだ。これを端的に言えば”嫌い”という言葉となる。
僕にとっての【恥】は、強烈な”嫌い”に言い換えられる。「loathe」でも「hate」でも足りないほどの、憎しみ、怒り、嫌悪…。
ここを掘り下げることは、我ながらとても怖い。さながら間欠泉を掘り当てるようなもので、一度ブチ当たると、決して人に浴びせてはいけないものが噴出する気がする。
だが、哲学的に恥を考察し、それを受け入れようとしている人のブログを読んだが、”恥”として感じているものから怒りを抽出し、発散することが肝心なのだという。
僕の心に眠るマグマのようなものに触れる。次の問いがこれとは。【観察者羞恥】から始まって、遠いところまで来たような心持がする。
では今日はこの辺で。