精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の人生は、他人に言わせても”寂しい”のか?

最近ふと、「僕の価値観や人生観は、人から見れば寂しいものなのではないか」と、疑問に思った。きっかけは、”幸せ”について問われたことにある。

 

白状すると、実は未だに、「幸せ」がどういう状態か、よくわかっていない。「幸福」とか「happy」に置き換えても、それがどんな感情を指すのか、いまいちピンとこない

 

それこそ、「幸せそうだな」と言わずとも、例えば「楽しそうだな」「居心地がよさそうだな」といった言葉の方がしっくりくる場面の方が圧倒的に多い。


わざわざ「幸せ」という表現を選ぶ場面が、そしてそれ以外の言葉を当てられないドンピシャの場面が、人生を振り返ってもまるで思い浮かばないのである。


正直なところ、「今こそ幸せだ!!」と確信した瞬間は、自覚ある限り、人生で一度もない。僕にとって「幸せ」という概念は、いまだによくわからないものの1つなのだ。


人に言わせれば、幸福を知らないというのは、それはなんと”寂しい”話だろう、ということなのかもしれない。ただ、”これだけ”が歪に映る僕の価値観の全て”ではない”。

 

だから以下、自分で客観的に振り返れるようにするためにも、僕の道徳観や価値基準をなるべく淡々と、棚卸ししておきたいと思う。

 

 

手柄は要らない。責任は持つ。

 

僕は何かがうまくいったとき、「自分の独力で成し遂げた」とはほとんど思わない。99.9%は周りのおかげ、環境のおかげだと、本気で思っている。


逆に失敗したとき、損害を受けたときは、必ず自分ごととして反省する。例えば地震のようにな不可避の出来事もあるが、避難の準備はできたはずだと考えるタイプである。

 

だから僕は、手柄や功績がモチベーションになったことが無い。なんなら、それらを受け取ると、むしろ気持ちが悪くなる。賞賛とはもはや、僕にとって毒に等しい。


一方で、責任や汚れ仕事はどんどん引き受けたい。なんなら、それが自然だと思っている。周りのミスのケツを僕が持てば世界は平和に回るなら、それでいいではないか?

 

基本的には他人を動かすより、自分を変える方が、受け止めてしまう方が、圧倒的にラクというのもある。僕は賞賛はあげて、責任は負うことを、当然だと思っている

 

褒めるのも、褒められるのも苦手。

 

僕は人を褒めるのが苦手だ。それは、僕自身が褒められることを嫌っているからだ。褒め言葉をもらうと、どうしても嘘くさく感じてしまうのだ。

 

相手に悪意がないのは分かっている。しかし、自分の”一面”が「成果」や「功績」として評価されても、その裏にある失敗や葛藤を思い出してしまい、むず痒くなる


相手が僕を傑物のように思っていると、「いや、断じて違うんだけどな」と心の中でつぶやいてしまう。それは卑屈というより、冷静な自己評価というべきだと思っている

 

「価値がある」という評価への違和感。

 

先に書いたことに関連するテーマだが、僕は実のところ、「99.9%の人間は等しく、特別ではない」と思っている。

 

例えば、亡くなった結果数万人単位で悲しむとか、莫大な経済損失が出るとか、科学的な知見が大きく失われるとか…そんな人はごく一部だ。


だから「生まれただけで価値がある」「自分の価値をもっと認めよう」といった言葉には、どこか空虚さを感じてしまう。等しく、”その他大勢”に括られるだけだからだ。

 

もちろん、最低限の清潔さや礼儀など、人としてのマナーを気遣う努力は必要だと思う。ただ、「自分を特別に見せよう」とするだけの努力には、あまり意味を感じない

 

”特別視される”と虫唾が走る。

 

僕を特別扱いしようとする人がいたら、正直かなり警戒する。「あなたは特別です」「素晴らしい人です」と言われると、気味が悪い。「何が狙いなんだ」と思ってしまう

 

僕は自分が特別扱いされることに、強い嫌悪を覚える。その理由において「これだ!」という仮説は立てられていないのだが、心当たりは無きにしも非ずだ。

 

僕は、自分の完全上位互換たる存在など、この世にいくらでもいると思っている。だから、他人が僕に特別性を見出しても、それは”嘘”だと感じるのだ。

 

実際、褒められるたびに、どこか強い不快感ばかりが残る。嬉しかったと感じた記憶は、正直思い出せる限りではマジで浮かんでこない。

 

実際こないだも、「頭いいですね」と言われたのだが、鳥肌が立つほどの強い不快感を覚えてしまった。なんというか、「どれだけ狭い世界で生きてきたんだろう」と思った。

 

「俺程度の知性をそう思うほど、これまで賢い人に会ってこなかったんだろうか?」とさえ思う。もちろん失礼なのは承知だが、本心でそう思ってしまうのだ。

 

僕は自分が特別であろうとすること、または他人に特別扱いされることの両方に、強い拒否感がある。自分を少しでも特別だと思った瞬間でさえ、嫌悪が湧いてくるのだ。

 

考え方として共感したのは、見城徹氏の著書にあった言葉だ。例えば、「朝起きて憂鬱なことが三つ以上ないと不安になる」、「結果が出たらすぐに捨てろ」…。


──このあたりの思想には、深く共感した。そして彼もまた強いコンプレックスと反骨心を抱えており、僕もそこには通じる部分があると感じる。

 

ただし、圧倒的に熱量と覚悟と練度が違う。だからこそ、共感と述べることさえ、なんかおこがましいようにも思っている。

 

終わりに:寂しいのか?それとも自然なのか?

 

ここまで書いてきた価値観は、人によっては「寂しい」と感じるかもしれない。あるいはどこか、慄然とする感じを抱いたかもしれない。


だが僕にとっては、これが20年以上続いてきた“普通”である。今更「自分を労おう」とも思わないし、「自分を愛そう」という言葉にも、どこか偽りを感じる。

 

ただ1つ不思議なのは、これらの価値観・僕なりの道徳を、他人に押し付けたことは誓って一度もないということだ。


他人には平気で「それはお前の責任じゃないよ」と言ったり、「いやー、幸せそうでよかったね」と声をかけたりする。そこに罪悪感は全く覚えない。


こう考えると、僕が僕に強いているアレコレは、”ストイック”という言葉の定義さえ通り越した領域にまで辿り着いてしまっているのかもしれない。

また時間を置いて、読み直してみようっと。ということで、今日はこの辺で。

 

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