精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

過去の自分が好きだったものは、今も大体楽しい。

休むことがへたくそな自覚がずっとある僕なのだが、今じっくり腰を据えて取り組んでいることに、「過去の自分が好きだった時間を思い出す」というのがある。

 

物心つくかつかないかのギリギリの頃、僕は”ほぼ直感的に”、何をしている時間に快を見出していたのか?そこに大きなヒントがあると思っているからである。

 

パッと思いつくだけでも、例えば秋の夜に虫の声を聴いていた夜が思い起こされたり、昼下がりの洋室で一人、マリオRPGをしていた時間を思い出したり…。

 

それら一つ一つは完全に断片的で、そこに繋がりは一見して見出せないように思うのだが、時にはそれを追体験してみるなどして、そこに共通点を見つけようとしている。

 

まだまだその序盤なのに違いないのだが、現時点で手応えとして、やはり過去の自分が好きだったものは、今も大体楽しい、というのを得ている

 

今日はそんなお話を書いてみる。

 

 

純粋に心惹かれた時間。

 

大人になってから多趣味であることを自負していたが、最近それを整理し始めている。なぜなら、手を出したものの、めっちゃハマったわけではないものも多いからだ。

 

例えば将棋、お菓子作り、家庭菜園といったものは、「多分俺はこれが好きだ」と思いながら始めたのに、結果として夢中には至らず、そのまま止めてしまったのだ。

 

それらを並べて考えると、ふと気づくことがある。それは、上記のいずれも、子供の頃にやったことが無いという点だ。なんなら、縁も感じない。

 

家庭菜園はギリギリ母や祖父がやっていたので馴染みがあるが、「めんどくさいことしてるなぁ」といういわばネガティブな印象だったから、別にハマらなかったんだと思う。

 

将棋は一家の誰もやっていないし、お菓子を作ってもらった記憶もほとんどない。そもそもなぜ自分は一時期お菓子を作るのが好きだったのか、思い出せもしない。

 

一方、今でもやっていてはっきりと快の感覚を覚えるものは、大体子供の頃に、それそのものか、あるいは似たものに夢中になった時期を経ているとも気が付いた

 

僕が継続している趣味で一番長いものは魚釣りなのだが、これは5歳のときにはっきりと心底「楽しい!!!!!」と思い、絵本より釣り雑誌を求める子供になったほどだ。

 

そもそもそのきっかけは、元々僕は「魚」に強く心が惹かれていたことであり、物心つく前から水槽を除いたまま微動だにしない子供だったと言われることさえあるほどだ。

 

ということでそれを踏まえて、最近ある実験をしてみた。子供の頃に読んでいた魚図鑑を実家から持ってきて、おもむろにそれを開いてみたのだ。

 

読むというより、ただ眺める。この日本には、僕が見たことのない魚がまだまだ、大量に、この大海原を泳いでいる。なんと素晴らしい世界だろう―…。

 

そして気づけば、10分以上無心で、僕はページをはぐっていた。本当に「はっ」という感じで、我に返った。久方ぶりに静かに夢中になれたように思う。

 

また、僕は家で淡水魚を飼育しているのだが、ふとその水槽の前に腰を下ろし、その中を泳ぐ魚を、無心で観察してみたこともある。

 

その際も、気づけば10分以上ただ”見て”いて、またしても「はっ」という感覚とともに、我に返るような体験をしたのだ。

 

これらいずれも子供の頃から夢中だったことであり、そしてそれ自体がとても強い快なのか何なのか、すごく集中できてしまうため、言葉にするのが難しい

 

集中というより、それを見ている僕という目線が消えて、それに同一化しているというか、【熟達論】にもある、観察している主体の喪失を覚えるようなイメージである。

 

自分でもなぜだから分からないが、強く心を惹かれるものは、言語化を阻んでしまうのだが、それに触れているときは完全に”夢中”になれるように思う。

 

その対象は、意外と子供の頃から変わらない。それが人間なのかもしれない。過去を今見つめ直すと、やはり発見に富んでいる。だから内省は面白い。

 

ということで今日はこの辺で。

 

 

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