精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕にとって「休む」ことは、もう、リハビリに等しいらしい。

最近、”休む”という選択が怖くなっている。と同時に、それに対して恐怖を覚えている。空白があるとそれを避けたくなり、仕事という一番身近で安直な時間で埋めるのだ。

 

正直、自分の精神・神経・身体が結構ギリギリのところで綱渡りしているという自覚はある。朝起きれないし、仕事の処理速度は落ちたし、感情の起伏も減ったからだ。

恐らく、今は脳が麻薬めいたものを分泌し、それらを麻痺させることで何とか動いている状態であり、それが尽きると、文字通り糸が切れたように、崩れるのではないか。

 

ただ、このモードは1ヶ月ほど前も発生しており、その際は毎日9時間寝て、その時々で身体が欲するものをひたすら食べることで、1週間程度で復活させたと”思っていた”。

 

ただより正確に考えるなら、戻ったのは体力や神経のゲージではなく、脳内麻薬のストックなのではないかと思っている。

 

別に身体を動かす根源のエネルギーは戻っておらず、脳内麻薬が先に充填され、それを回復と勘違いし、今もまた全力でダッシュした結果、また枯渇している・・と。

 

そう思うと、色々腑に落ちることは多い。えてして薬物に対しては、人間は馴化し、耐性ができてしまう。だからどんどん効果が落ち、必要量が増えるのだ。

 

それゆえに僕は、脳内麻薬の”切れ”が前回よりも圧倒的に早くなっており、だからこそ今またこうして、しんどさを感じてしまっているように思う。

 

・・・・ならば話は簡単だ。休めばいいじゃん、と。そんなことは子供でも分かる話だ。だが今、僕の中では、ちょっと厄介な思考がそれを阻んでいる

 

僕にとって「休む」ことは、もう、リハビリに等しいらしい。今日はそのテーマで、諸々を整理し距離を取るためにも、一つ記事を書いてみる。

 

 

非常に”似ている”と思った記憶。

 

一旦脱線してしまうのだが、僕は小6の頃に右ひじの軟骨が剥がれ、中2のときに中指の辺りを3針縫い、大学1年生のときに小指の骨を折ったことがある。

 

その間当然患部を動かすことはできず、ひたすらの安静と治療を経て、怪我が治り、痛みが消えてから、次の段階に移ることとなる。そう、リハビリだ。

 

これに取り組む時は、本当に憂鬱だった。まず何より、怖い。久しぶりに動かそうとすると、筋肉も関節も固まっていて、動かすだけで痛いのだ。それがわかるから、怖い。

 

しかも、そういう痛みを抱えつつも、我慢して毎日少しずつ動かすことで段々と元の機能に戻ってくるのだが、そこまでの日々が本当に長い

 

「右ひじが痛くないときはどう動かしていただろう」とか「いざ使えるようになってもこの右手は元に戻るのだろうか」とか、不安もどんどん募ってくる。

 

・・・振り返ればリハビリ期間はいずれも1ヶ月弱で終わり、今ではほぼ完治して元の機能に戻っているのだが、この記憶はどうにも快くないものとして、僕の中に今もある

 

ではなぜ、突然こんなことを書いたのか。それは、僕が今休みに対して抱いている印象が、このリハビリの経験と非常に似通っているためだ。

 

もう長いこと、「休む」ということを避けてきた。久しぶりにそれに触れたとき、どんな痛みや不安に見舞われるだろうか。その印象自体が恐怖の感情を想起させる。

 

しかも、完全にそれ自体を忘れた状態から、徐々にそれを思い出し、取り戻すまでには結構な時間と日数が要るであろうことも想像がつく

 

受験生として、長期間、長時間の勉強に全てを捧げてきた学生が、合格した後に何をすればいいかを完全に見失うのと似ている。

 

それが占めていた期間が長いと、それを手放したときに、本当にすべてを忘れ去っているのだ。だから今の僕にとって、休み自体のリハビリが要るのではと感じている。

 

少しずつ少しずつ、今の僕に”休み”という時間と感覚を取り戻す。一気に戻してはいけない。そうすると痛みと抵抗を伴ってしまう。

 

―そういう状態にまで至ったことは反省すべきかもしれないが、かといって元に戻るには相応のケアが要るには違いない。そう意識しつつ、明日のオフは楽しみたい。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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