精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕の自己評価は、誰が見ても”卑屈”なのか?

僕は自己評価が”辛(から)すぎる”と言われる。時には、「どうしてそんなに自分の評価が低いんですか?」という心配(呆れ?)さえ頂戴する。

 

正直、自分では「そうでもないんだけどなぁ」と思っているし、なんなら周りの人の自己評価が、なんで”そんなに高い”のか、不思議であるとも感じている。

 

さて。僕は自分の価値観の根本を、30年来の友人にも(たぶん)吐露したことが無いのだが、それを伝えると彼らはきっと、僕を抱きしめてしまうのではないだろうか

 

それほど、僕は”普通”と思っている価値観が、人に言わせれば”卑屈”というか、なぜそこまで自分に辛く当たれるのかという疑問を想起するらしい。

 

ということでこの記事では、僕が”普通”と思っている自己評価を、ここに書き出したうえで整理したいと思う。では以下本題である。

 

 

僕に価値ある世界はおかしい。

 

【博士の愛したDT】の一節に、ぐんぴぃ氏が「俺でも住めるような家は大したことないと思ってしまう」「俺を素敵という人は冷める」といったものがある。

 

僕は、これに、強く共感する。僕はそもそも、自分が”価値ある存在だ”なんて思うことが嫌で仕方ない。それはどこか、自惚れているような気になるからだ。

 

そもそも自分の優劣など、捉え方次第でどうにでもなるのが世の中だ。勉強が得意で学校1位の奴も、地方の公立校で1位というだけで、難関私立から見れば下位層だろう。

 

仮に東大に受かろうがアインシュタインから比べれば取るに足らない知性かもしれず、メジャーリーガーの方が運動ができ、稼ぎ、異性からも言い寄られるものである。

 

これこそが真理である手前、自分を「勝った」「秀でている」と捉えることが、むなしさを通り越して、もはや滑稽に感じてしまうのだ

 

テストで満点を取って浮かれている暇があれば、自分が着手していない分野の勉強に乗り出した方が絶対に良い。だから僕は、自分の功績という美酒に酔えたことが無い

 

体質として酒が飲めない人はいる。僕もそれに似たようなもので、過去の実績、取得した資格、それらを笑顔で語る自分を想像すると、強い吐き気さえ込み上げてくる

 

僕は”自分が特別である”と思うことが嫌いだし、自分は”特別だと自称する”人を見ていると、身の毛がよだつほどの嫌悪感を覚えるようになってしまった

 

都度設定する、追い求める成果や結果はいわば道しるべであり、僕は人生ずっと、わからないことを追いたい、常に自由研究のように世界と接したいというのが本心だ。

 

特別であることに強いアレルギーを持っているからそんなことを標榜するようになったのか、標榜するうちにアレルギーを得てしまったのか、それはもうわからない。

 

そんな僕も、かつてはどうにかして、特別になりたかった。身体を鍛えたりたくさん読書したり、オシャレを学んだり会話のコツを練習したり‥。

 

これまでの自分の人生を総括し、その延長線上にあるのは嫌だと思ったためだ。そのためには他者からの評価が要る。そう心底、勘違いしていたからである。

 

だが今現在僕は、僕に価値があるという状況が発生すると、その気持ち悪さに耐えられる気がどうにも、しないのである。

 

異性を見ると、自然と浮かべるようになった感想がある。

 

20代中盤まで、僕は彼女という存在を、強く欲していた。なぜならその存在こそが、自分がうだつの上がらない世界から脱したことの証明になるからだ。

 

過去の自分をいい意味で否定し、更新できたことを確認できると思っていたからだ。(ちなみにこの当時こそ、まだ”特別であれば救われる”と勘違いしていた時期でもある)

 

さて。その実際はどうだったか。今も思い出したくないほど、悲惨なものだった。追えば追うほど遠ざかり、努力をしても投資をしても、一向に辿り着ける気がしない。

 

それでも諦めず、夢も捨てずに勉強し続けていると、段々と「恋愛」なる”ゲーム”のルールと本質が見えてきて…僕はその構図に、言い知れぬ嫌悪を、覚えてしまった

 

そこから完全に脱するまでには、失恋らしきものを数回経験することと、何度も何度も粘り強く内省を重ねることが必要だったが、今は土俵から降りられている

 

それ以来、異性に対し目を惹かれることがあるたび、仮面の告白】のように、理性が意識に現れて、それを皮肉交じりに詰るような思考がセットになってしまった

 

「今お前はあの人に好意的な感情を抱いたが、あの年齢、あの容貌の人の”お眼鏡にかなう”には、お前の年収はゼロが1つ足りないんじゃないのかね?」

 

「あの人がお前を選ぶには、表面的な魅力を超越した魅力が要るわけだが、お前にはお前の完全上位互換が溢れているこの世で、それを提供できるのかね?」

 

―と言った風に。大体この間は数秒程度なのだが、このセリフと時間は、僕の色々と甘っちょろい幻想を破壊し吹き飛ばすには、十分すぎる

 

僕はこのメタに実は感謝しており、自分が要らぬトラブルを起こさないよう、また二度とくだらぬ夢を見ないよう、守護霊のごとく見守ってくれていると捉えている。

 

終わりに:それでも僕は僕のことが嫌いではない。

 

ここまで書くとよく勘違いされるのだが、ここで明確に否定したい。僕は僕のことを嫌いだなどとは全く思っていない。むしろ、強く肯定している

 

仮に今「お前はダメな奴だな」と言われても、「お前もまた、世界から見れば俺と同じダメな奴だってことに気づいてないとは、こりゃめでたいなぁ」と見下せる自信がある。

 

だが、自分で自分の肩を叩き、「お前はすごいんだ、十分やっている」なんて言葉を掛けたいとも思わない。そんなことを誰かに言われた暁には、ゲロを吐いてしまうだろう。

 

自分で言うのもなんだが、僕は僕の”ポジション”を、誰よりも客観視しているだけという自覚がある。自分が特別だなどあり得ない。それは自明ではないか?

 

著名な作家ほどの文才も持たず、帰国子女ほどの英語力も持たず、身体能力に秀でてもおらず、何かしらの賞を取ったこともない。そこに特別性を見出す方が無理だろう。

 

もっとも、異性間の惚れたはれたとか、そういったものは普遍性を超越した特別性がカギとなるが、僕は僕に特別性を見出す人の審美眼を、猛烈に疑ってしまう

 

「俺を高く評価するとか、人を見る目が無いんだなぁ」と僕は思う。ちなみに似たことは、以下のような表現で、映画のセリフになってもいる。

 

私を入れるようなクラブには、入会したくない。

 

「私を入れるようなクラブには、入会したくない」…が、ずっと頭を離れない映画、「アニー・ホール」 | まるこブログ

 

‥この発言自体を、「卑屈な人間の思考の見本市」という風に評するコメントが多いのだが、僕はこの言葉に共感する。(ちなみにこれは登場人物の恋愛観でもあるそうだ)

 

僕は自分が嫌いだからこんな物言いをするわけではない。自分が平々凡々なホモサピエンスの一体で、特別性なんて見出すにはあまりにも力量不足だと知っているだけだ。

 

むしろ自分は人一人惚れさせるくらいの特別感を持っていると思える男性は、不思議で仕方がない。羨ましさは全く覚えない。ただただ生態として不思議なのだ。

 

いつからこんな考え方をするようになったか、過去の自分の時々の作品を残しているわけではないので伺い知ることは不可能だが、我ながらずいぶん…

 

常日頃から携帯するにはあまりにも収まりのいい、そして安心感のある価値観だと思っている。では今日はこの辺で。

 

 

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