先日、平野啓一郎氏の【カッコいいとは何か】を買って、毎日朝晩の2回に分けて読んでいる。想像の3倍くらい分厚いので、なかなか読み終わらずに満腹感がすごい。
まだ半分くらいしか読んでいないのだが、この時点で既に、これまで自分の中で特に引っかからなかったある言葉に、強く興味が湧いている。
それは『感性』だ。というのも、僕はこれまでずっと、どんなこともしっかりと言語化することこそが大事で、かつ面白いと思ってきた。
もちろん今も、それ自体は間違いじゃないと思っている。ただ最近は、それが行き過ぎて、言語化自体にどこか執着してしまっている気がすると、ふと思ったのだ。
言葉にできないものを無視したり、全てを近似イメージに置き換えて理解しようとしたりするのではなく、対象をそのまま受容し、味わえるようになりたい。
今日はそんなぼんやりとした誓いを立てておく記事である。
まず先に感動ありき。
僕がここで言うまでもないが、「感動する」とは、言語化を超越すると思っている。それを言葉にしようとしても、声の勢いや身振り手振りが伴わないと、不可能だろう。
例えばアスリートの圧倒的なパフォーマンスを見て強い興奮を覚えたとしよう。それを活字だけで伝えようと思うと、なかなかに難しい。零れ落ちる情報が多すぎるのだ。
それは、絶景や超有名な絵画をその眼で見たときの”強い感動”を、言葉にする方がナンセンスと思う感覚に似ていると思う。あれは確かに、”曖昧”なまま”わかる”のだ。
このことは勿論僕も同じである。まず、心が先に感動を覚える。興奮を感じる。時には強い悔しさや悲しみを覚える。言語化は、それらが薄まった後に初めて可能になる。
最近では、ボディビルの日本選手権の様子を見て、優勝して誇らしそうな選手と、舞台裏で涙を流しながら悔しがる二位の選手に、言葉を超越した”なにか”を覚えた。
まず先に、感動ありき。これは前提であり、言葉にできないものはあり得ないのだという思い込みがそれを邪魔しないよう、一層寛容でありたいと思っている。
他者の”好き”をリスペクトしないと生まれる軋轢。
【カッコいいとは何か】の序盤のエピソードにもあったが、相手が思う”カッコよさ"を否定することは、相手との関係そのもののを終わらせるほどのタブーだと思う。
僕もそのことは重々承知しており、僕は人の趣味を”絶対に否定しない”よう強く意識している。(僕の趣味を否定されたときは話が別だが)
カッコいいと自分が思っていることに煩いことを言われると、自分の価値観・道徳・規範の全てが、一緒くたに毀損されたような気持ちになってしまうからだ。
悲しいことに、他人の大事なものに平気で批評を入れるアホはいつの世もどの世界にも一定数居るが、その背景は色々あると言われる。
自分に夢中になれるものがないことの裏返し説もあれば、実は世間に向かって公言するのが憚られず趣味を持っている、とか。石を投げれば投げられることはないのだ。
他人の感性を理解できないことを、自分が正しいという優越感に置き換えるヤツは、極めて愚昧に見える。狭い世界の中で、同じ穴のムジナ同士で否定し続けとけと思う。
ただしここは僕も油断するとやりかねない、意外と本能的な返しなのだ。理解できないことには、興味と関心と尊敬を向ける。その癖付けで、意識を塗り替えたく思う。
終わりに:下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる理論。
感性ばかりは、本当に”偶然”気づくものであるので、頭で狙って”コレだ!”と当てることは不可能に近い。仮にできたように見えても、それはただのマグレ当たりだ。
勿論、自分が”本能的に嫌いなこと”の中に夢中になれることが無いという目星をつけるという意味では理性である程度コントロール可能だが、それでも範囲は膨大だ。
だから積極的に、”嫌いじゃないもの”の内、”興味が皆無というわけではないもの”を丁寧に自分の中に発見し続けるしかないように思う。
かつ、それらを並べたうえで、意識的に時間を取って、足を運び、その手で触れて、その目で観察し続けることが、感性を磨くのに良いのではないかとボンヤリ考えている。
その第一歩として、僕は次の休日に、美術館か博物館に行ってみようと思っている。そこで何に出会い、何に興味を持たず、何に興味を持つのか。今の時点ではわからない。
だからこそ、ワクワクする余白もある。久しぶりに休日を待ち焦がれる気持ちさえ湧いてきた。感性、今以上に大事にしようと改めて誓った。
では今日はこの辺で。