先日、カレンダーを見ていてふと気が付いた。11月に休みが取れそうな日が、1日しか無さそうだったのだ。他の日はテスト対策の開校や面談で、全て埋まる見込みだった。
となればこの機を逃さずにきちんとリフレッシュ・リラックスしなければ、根を詰めたまま、一切のガスも抜けないままに、年末の超多忙・繁忙期に突っ込んでしまう。

そうなると僕の心身は多分持たない。最近も急に燃え尽きたかのような無気力・倦怠感を覚えただけに、自分のコンディション把握と管理には敏感になっているのだ。
ということで急遽キャンプ場に電話し、サイトを一つ押さえた。ソロキャンプを楽しむためだ。社会から離れ、自然の中に身を浸す。原始の風景・音をただ感じる。
テントをのんびり張り、焚火を眺めながら鍋を食い、鹿の鳴き声に驚きながら、朝日とともに目覚め、豆から挽いたコーヒーを沸かし、味わう。
すごくゆったりとした贅沢な時間を、本当に久しぶりに満喫できた。ちょっと無理やり空けた時間であったが、そうする価値は十二分にあったと思っている。
・・・そんな時間を経て、今日はその翌日に当たる。普段通り身支度をして、着替えて、職場に来て、驚いた。見える世界・感じるものが、様変わりしていたからだ。
これはどういうことだろうか?正直少し動揺さえ覚えるほど、いわば僕の心にあった険が取れた、とでもいおうか。そんな穏やかさを覚えている。
今日はそれを分析しながら、自分に何が起きたのかを考えてみたいと思う。
それまで僕の身に起きていたこと。

それまでの僕はどうだったのか。実を言うと、とにかく急いていた。ずっと何かに追われているような感覚で、常に数時間後・数日後のことを考えていたほどだ。
特にそれが顕著だったのは、帰省のために高速道路を運転しているときのことだった。自分の体感に対し、とにかく時間の進みが遅いと感じてしまったのだ。
時速100㎞/hで”しばらく”運転したのだから、15㎞くらい進んでいるのだろうといってナビを見ると、なんとまだ6㎞くらいしか進んでいない。そんな感覚が頻発したのだ。
それを皮切りに、「あれもしたい、これもしたい」ではなく、「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」という焦燥ばかりが日々募り、今を生きている感覚は完全に消えていた。
気付けば”ルーティン”として自分が括っていたタスクは毎日14~15個にもなり、それを業務時間内で終わらせることが非現実的に思えることも増えた。
とにかく地に足が全くついていないような感覚があり、上滑りとか空回りとか、そういう風に形容すべき状況が2ヶ月弱にわたって続いていたように、振り返れば思う。
”ゆったりした時間”で取り戻せた、透明な観点。

僕が山の中で過ごせた時間は、それとは対極にして、そういう焦燥を必要としない時間だった。どちらかと言えばそれは、”ゆっくり”よりも”ゆったり”と表した方が近い。
その理由は、辞書で調べてみるとよくわかった。そこには、”ゆったり”の意味として、こう紹介されている。
ゆったり [副](スル)
1 ゆるやかでゆとりのあるさま。➡「ゆったり(と)編んだセーター」「ゆったり(と)した旅程」
2 落ち着いてのんびりしているさま。「ゆったり(と)くつろぐ」
僕は確かに、何にもせっつかれる心配のない落ち着いた場所で、のんびりと身体と心を寛がせ、ゆるやかでゆとりのある時間を、ただ身を任せて満喫できた。
そういう”ゆったり”した時間は、僕に何をもたらしたのか。ここで思いつくのが、【熟達論】にもあった、泥水が入ったビーカーのメタファーだ。
その容器を揺らしたり混ぜたりする限り、その濁りは永遠に消えず、いつまでもビーカーの中を不透明に保ち続ける。だが、容器を置いて、静かに待つと、どうなるか。
やがて静かに泥は沈殿し始め、そして上から段々と澄んだ水に戻っていく。結果、今まで自分が見失っていた大事な”心(しん)”の部分が、再び見えるようになるのだ。
僕もまた、本当に静かで揺さぶりの無い時間を経て、色々と冷静に、今の自分が見つめ直せているように感じる。まず気づいたのは、自分の”無駄の多さ”だ。
不必要なまでに組まれたルーティン、今考える必要が無い心配事、そういったものが”日常に多々散りばめられている”ことに、はっきりと気づいている。
「それは本当にしないといけないのか?」と自問すると、「いや、これはマジで不毛なタスクだな」と冷静に思えるものがいくつもある。
それらはいうなれば、僕を焦燥させるためだけに、過去の僕がいたずらに組んだ、つまり無駄なものだ。消したところで、何も悪いことは起きるまい。
不都合があれば、それはそのとき戻せばいいだけ。その観点すら、濁った泥水のような心が続いていたことにより、完全に失われていたということになる。
小忙しさは誰も幸せにしない。そういうことなのだろうか。堀江貴文氏もそういえば、”ワクワクすることだけで”1日を埋め尽くせと言っていた。
それは即ち、普段自分が取り組んでいることの価値・必要性は常にメンテナンスすべしということも表しているのではなかろうか。もしそうなら、強い納得感を僕は覚える。
”ゆったり”という感覚の重要性を、このキャンプを通じて僕は改めて理解できた。そんな風に思う。なんと有意義な休日だったことだろう。
では今日はこの辺で。