精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

「後で話がある」って前フリ、正直……めっっっちゃ嫌い。

昨日、大学生講師の一人から意味深な連絡がきた。曰く、「少し伝えたいことがあります。早く出社するので時間取ってもらえないでしょうか?」というものだった。

 

この手の連絡は、よくある話なのかもしれない。言われたり送られたりは勿論、自分がそういう言い回しを使ったことも、経験があるのではないだろうか。

 

別に隠していたわけではないのだが、僕はこの「後で話がある」という前フリが、自分の中の嫌いなものランキングで確実にトップ5に入るほど嫌なのだ。

 

実際今も、たまらない不快さがずっと付きまとっている感じがして、心が緩やかに擦り減らされている感覚がある。顔の周りにずっとハエが飛んでいるようなものだ。

 

せっかくなので今日は、これ以上不毛なままに振り回されるのもいい加減腹が立ってきたので、具体的に何がどう嫌いなのか、言葉にしてみようと思う

 

もしかしたら共感されるところもあるかもしれない。もしそうであったなら、僕としても嬉しく思う。では以下、本題だ。

 

 

まずは感情の分析から。

プルチックの感情の輪の52感情と怒りや不安・嫌悪など感情の正体の解説と自己概念と感情の関連

 

まず、自分の内に何が生じているのか、いつも通り【プルチックの感情の輪】をもとに紐解こう。早速自分の「嫌な気持ち」を分解すると、以下のようになりそうだ。

 

警戒・嫌悪・驚き・不安

 

この中でも感情の”強さ”に注目すると、この一覧は以下のように整理できる。

 

警戒>驚き=嫌悪>不安

 

‥これを並べてみると、もう少し理解と整理が進む。例えば、確かにはじめは驚きを感じたが、今はその感覚はない。かといってそれが弱まった”放心”も、全然感じない。

 

また、思った以上に嫌悪の感覚が強く、そして警戒の程度は、よくよく考えれば不安とほぼ同列に感じられている。

 

どこか弱い苛立ち(腹が立つ感覚)も感じてはいるが、多分それは嫌悪に伴う不快さだと思う。まとめると、今の気持ちは嫌悪と恐れの混合感情と考えた方が近いように思う。

 

とはいえそれを素直にプルチックの輪に求めると、僕が感じているのは「恥や羞恥心」ということになるらしい。さすがにそれは・・・・どうなんだ?

 

正直、そういう己に対するシビアな観点は、今は微塵も背負っていない。嫌なものは嫌!それだけなのだ。

 

とある心理学者の動画で、プルチックの感情の輪は自分の感情の客観視と整理に確かに有用だが、幾分過度に単純化しすぎている側面もある、と聞いたことがある

 

今僕が感じている「嫌!」も、もしかしたら思った何倍も込み入った、複雑極まりない感情なのかもしれない。

 

他に苦手な人たちは、どうディスクリプションしているか?

 

ところで、こういう「後で話がある」という前フリが嫌いな人は、他にいないのだろうか。そう思って調べると、同じく”嫌い”派のコメントを多々、見つけることができた

 

その方々の意見をざっくりまとめると、ある程度共通するもので括れることもわかった。早速、列挙してみよう。

 

① 何かめんどくさい、ショックなことを言われるのではと不安になるし、一切の前情報が無いと、どんな話が出てくるか、想像できずに怖いから

 

② 過去そういう前フリがあった際、その全てが嫌な記憶に繋がっているから

 

実を言うと、この全てを、僕は理解できる。”なにが”そんなに嫌なのかというと、どんな話が出てくるかわからないまま、その期日まで待たされる、それが嫌なのだ!

 

そしてその根幹にあるのが、②だ。例えばフラれる、クビになる、クレームを伝えられるなどなど、多くの人はこの前フリの後に、心にダメージを負っていたそうだ。

 

それは僕も同じだ。今思い返せるだけでも、退職・退部希望、マルチ商法への誘い、身内が脳梗塞で倒れたなどなど、トラウマとして刻まれても違和感のないものが並ぶ。

 

僕が今感じている不快な感情は、「今回も過去のイベントに匹敵する面倒なことが起きるという予感と、それを抱えたままその時間まで過ごすことの辛さ」に起因する。

 

そう捉えると、「確かに不快だけど、これは人並み以上に繊細に生まれた以上、仕方のない感情ではないか」という諦めがつくような気持がしている。

 

終わりに:結論みたいなもの。

 

実を言うと、この”嫌いさ”を内省した結果、何かがわかったというより、また別の巨大な謎の数々に辿り着いてしまったように感じる。

 

例えば、クレームとか叱責、身内の病気はまだしも、なぜ僕は退職・退部希望や、マルチ商法に遭いかけたことがトラウマ”になっているのか?

 

マルチは経験上1回しかないが、退職・退部希望など、それに似たものは塾講師という仕事をしている以上、何度も何度も受け取ってきた痛みではないか、と。

 

その度にトラウマを上書きされるような傷を負っているとするならば、僕の精神はとっくにへしゃげて、潰れてしまっているように思う。

 

また更に不思議なことに気づいた。僕は平素、僕から去っていった人たちのことは、ほとんど思い出さない。眠れない夜に顔を思い出すことも、全くない。

 

つまり、”普段は”全然、自分の反芻思考にさえ上ってこない、どうでもいい記憶なのだ。なんと摩訶不思議で、はた迷惑な性質なのだろう。

 

羽生善治氏の言葉に、「不安とは”わからないからそう思うだけ”であり、実体としては実は何もそこに無いことが多いのかもしれない」という言葉を思い出す

 

注射が嫌いな子供は、嫌いだからその恐怖が倍増しているという話も、これに関連する気がしている。

 

”嫌い”という言葉、今こそガッツリ取り組んで掘り下げるべきタイミングなのかもしれない。では今日はこの辺で。

 

 

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