「あたしンち」の漫画の一エピソードに、すごく共感を覚えるくだりがある。それは登場人物のユズヒコに関するものだ。
彼は、部屋でゴロゴロしているときなどに、”室内がもやもやで充満したら行動を開始する”という話が出てくる。これはすごく、「あるある!」と思わされた。

僕も家にいるときに、未決の仕事・作業が頭に浮かび、別の終わっていないことなどを次々と連想して、それがどんどん膨張していくような感覚を覚えることがある。
一番酷い時期は、シャワーを浴びている際に、まだ組み終わってない個別授業などのシフトが頭に浮かんでしまうことから、シャワーが嫌いになっていたことさえある。
そんな風に、「不安過ぎてイライラするもの」は、本当に常日頃から僕の意識の片隅に隠れていて、隙あらば思考全てをジャックしようと狙っているかのようである。
とはいえ、僕の無意識の部分は、”それを必要としている”から、それを手放せないんだとも考えられる。それが健全であるか否かはさておき、だが。
だから今日は、その「不安過ぎてイライラするもの」が一体僕にとってどんな存在なのか、何を伝えようとしているのか、しっかり内省を深めてみようと思う。
では以下本題だ。
不安過ぎてイライラする‥をもっとディスクリプションする。

とはいえ、”不安過ぎてイライラする”という感情がどんな状態なのか、これを掘り下げようにも抽象度があまりにも高すぎる感じがする。
だから【観察力の鍛え方】に倣って、まずは僕の脳内に立ち込めてくるどす黒い雲のようなそれを、できるだけディスクリプションすることから始めることにした。
その不安感は、起床してからすぐではなく、例えば皿を洗っているとき、着替えているときなどに立ち込めてくる。
特に朝の準備などに追われ、時間が無いという感覚が強まってくると、本当に意識のあちこちから噴出してくるものと言える。
一番それが多く出てくるのは、少し寝坊するとか、体調が悪いなどして、1日の中で自分がしたいと思っていた活動・ルーティンが阻害されたときである。
「今日も散歩に行けなかった!」とか「ここ最近ずっと筋トレができていない!」というフラストレーションから始まり、気づけばどんどん反芻思考に転じていく。
「大学生講師のシフト組がまだ終わってない、でも家だとできない、気になって仕方ないから、2時間くらい早出して終わらせてしまおうか…」とも思う。
しかし今すぐ家を出ることは大体できず、まだシャワーを浴びていない、着替えていないといったこなすべきプロセスが残っている。それだけでストレスはまた溜まる。
これらは職場に”ついた時点で”霧散することが多い。結果としてそれを終えなくても頭から消えることはあるのだが、また暇になると、それはぬたりと復活する。
かといって、それを完了させても、また別の未完の仕事や、将来の漠然とした不安、過去の嫌な記憶などを伴って、主に家で寛いでいる時間にやってくることが多い‥。
という感じだ。このディスクリプションを整理すると、こんな風になる。
主に時間に追われた際に感じる苛立ちがトリガーとなり、その不快さに関するものすべてが数珠つなぎのように連なって、頭に湧いてくる感情
そう思うと、確かにそうだな、と思う。そしてここまで紐解いたとき、僕の中に「あっ」と気が付く発見が一つ、得られた。続いてはそれについて詳述する。
その不安やイライラは、何を僕に教えてくれているのか。

先述のことを踏まえると、全ての苛立ちの起点は仕事が終わっていないこと”ではなく”、些細かつ未消化のイライラが自分の中にあり過ぎることではないか?
いわば僕には、意外にしてどうでもいい地雷が、多すぎる。というより、このイライラについては、過去何度も自覚がある、僕自身の人間的な課題のような気がしている。
僕は自分の計画や準備がその通りに行かないときや、今やっていることの意義が見えないとき、終わりの時間がわからないままの会話に交ざっているとき、よく苛立つ。
自分にとって最も大事な、時間と効率化を徹底的に毀損されている気持ちになるためだ。僕は見通しが無い時間や、ルーティンから外れた行程が、とても嫌いなのだ。
ここから立脚すると、すごくスッキリはする。僕は元々そういう特性があるからこそ、日課一つでも、それができなくなると、途端に苛立ちを覚え始めるのだ、と。
実際、ルーティンを忠実に、丁寧に、決めた通りに守れた日は、気分よく家を出られるくらいである。ならばもっと必死に、真剣に、守れよ俺、と思うのだが…。
実を言うとここにも、自分の価値観の衝突があるように思う。僕は、意義のわからないことや理由に納得できないことに本腰を入れて取り組むことが、非常に嫌いだ。
仮に”みんながやってても”、自分には要らない、意味が無いと思ったら手を出さない変な頑固さが、僕にはある。興味が無いことには、冷徹なまでに興味が無いのだ。
するとまた一つ、新しい仮説がある。僕の顕在意識はそのルーティンを必要だと思っていても、潜在意識の方が実はそれに納得がいっていないのではないか、と。
いわば理性と感情のケンカだ。理性100%で、僕の心の声を無視して押し付けたルーティン項目に触れると、僕はそれをスキップしがちになる。
すると今度は感情の側が、”自分が決めたことを守らない自分に対し、苛立ちを覚えてくる”。手と手を取り合うべき二つの要素が、バチバチになっているのだ!
―だから僕が取り組むべきことはなんなのか。すごくめんどくさいが、一つ見えている。それはルーティンを全て棚卸して、7-3バランスで見つめ直すことだ。
こちらは【心の疲れをとる技術】の著者である下園壮太氏の紹介していた考え方で、簡単に言えば自分の理性と感情の声を3:7~7:3のバランスで折衷することである。
例えば僕は、理性としては毎日45分程度の筋トレをしたいと思っている。だが感情の部分は、大会出場といった目的もないのに体を鍛えてどうするの、と言ってくる。
そこを抑え込む…のではなく、例えば「2日やったら1日オフで、1日30分のトレーニングにする」といった風に、双方の声を汲み取った内容に書き換えるのだ。
僕が苛立ちを覚えるスポットスポットでは、僕の中で衝突が生まれている。もしかして、それを教えてくれるサインこそが、顕在化した不安と苛立ちなのかもしれない。
そう思うと、また解釈や観点が、より建設的なものへ変わるように思えてきた。これだから内省は、いつだって楽しい。
では今日はこの辺で。