少し情けない話だが、僕は未だに、知らない生徒が多数の前で授業をするのが苦手である。元来人見知りだからだと思っていたが、対人恐怖なのかもしれない。
勿論他にも、今は思い出せないだけで、なんか嫌だな、憂鬱だな、と思うことはたくさん存在する。そして経験則だが、それが楽しくなることは、まず無いと見ていい。

人生において、一度でも嫌だとラベリングしたものは、終生嫌なのだ。だから、それはそれとして認めたうえで、対策を考える方が、まだコントローラブルである。
例えば、粉薬は身体に良いが、それは非常に苦く、子供が口にするにはかなりきつい。そのイメージが付いた人が、粉薬を”好きになること”は無いだろう。
それよりも、それが平気になるような工夫を惜しみなく採る方が建設的だ。例えばオブラートに包む、あるいは”おくすりのめたね”ごと食べる、それでいいと思う。
となれば、「嫌なこと」をポジティブに解釈するコツがどういうものか、段々と見えてくる。自分にとって、それがなぜ嫌なのかの言語化と、その無力化の術の考案だ。
今日はそれについて、以下つらつらと書いてみる。
僕は"僕が嫌なもののどこが、そんなに嫌うのか。

「俺はお前が俺を見たのを見たぞ!」みたいな言い回しだが、自分が嫌いなものの内、特にどこかどうなのかを把握するのは、第一歩にして、一番難しい。
この感情は強い嫌悪であり、いわばプルチックの感情の輪の一番内側に当たる。そこはもはや本能の爆発といえる強さであり、言語化は不可能なところともいえるからだ。
それでも、腰を据えて丁寧に取り組むと、突破口は見える。僕の場合はまず、自分で自分をカウンセリングするように、嫌な気持ちを具体的に自問自答し続ける。
例えば冒頭の例の、”知らない生徒が多数の前で授業をするのが苦手”ということを紐解いていくと、以下のような問答が立ち上ってくる。
この苦手とは、緊張のことではないか?
➡それは確かにあるが、例えば心臓がバクバクして、口から出てきそうといった反応は伴わない
かつて集団の前で大失敗したことはあるか?
➡それは無いと思うが、それが次の確実な成功を担保しているとは思わないとも感じる。三打席連続安打の次は、また7割以上が凡打の世界なのだ。
1:1で知らない人に会うのは苦手か?
➡苦手かもしれない。特に冒頭の数分はとても疲れる。また、保護者の方と面談する際は、いつもかなり消耗してしまうという体感がある。1日に3コマくらいが限界。
こういう緊張する集団があっても、2回目以降は緊張の度合いはどうか?
➡正直、最初の10分をクリアできればあとは無緊張になる
お前が感じている感情は、「不安」ではないか?
➡それは確かにそう。”どんな背景と顔を持った誰が来るか”が全く分からないし、それを好奇心に変換することも難しい。
・・今回は幸運にも、自分の心理のより正確なところまで掘り出せた。僕が感じているのは不安であり、聴講者がわからないという「未知」から、それは出ているそうなのだ。
この際、僕が目指すべきは「ある程度がわかればいい」という段階である。となれば、具体的な行動の段階に移行していく手応えがある。
例えば他に担当している先生に様子などを聞く、面談前の電話で部活や得意・不得意科目などを事前にリサーチする、という風に。また、逆の手もある。
僕はどんな講師で、この授業ではどんなことを教えるか、事前に開示しておいてもらうのだ。すると、相手側からの未知の余白も減り、こちらとしてもラクになる。
こんな風に、「なんとなく嫌」なものがあった際、それをディスクリプションすることで、より正確な問題の把握と対処法の考案が可能になってくる。
嫌なことほど、曖昧なままにしておかず、徹底して自己分析の刃を向ける。これがポジティブに解釈するコツの70%くらい、である。
「嫌なことを終えた後に起こる副産物」も、この際言語化しておこう。

残りの30%については、正直この記事を書きながら気づいた。というのも、僕がある条件下での”苦手”なことを終えた後は、得てして、快の感情が湧いてくるのだ。
スポーツ選手が試合後のインタビューで、清々しい顔をしているのをよく見かけるが、あれに近いような解放感・達成感・高揚感のソフト版を、僕もまた覚える。
もちろん、自分が嫌い・苦手・不安なものをただ”やっただけ”では、そういう快の感情が伴うことは無い。その場合は只の疲労感・事務感が残るだけなのだ。
では、その条件とは何か。これは考えるまでも無くすぐ頭に浮かんだが、準備をして臨んだかどうかだ。きっちりと下準備をして臨むと、終わった後は気分が良くなる。
その期間は多ければ多いほど良いのか、ちょっとそれはわからないが、準備を少しでもしていると、苦手なことが終わった後に、褒美といえる物が待っている。
これはかなり励みになる発見ではないだろうか?僕の場合はたまたまそういう仕組みになっているようだが、仮にそうでなくても、関係ない褒美は好きに用意できるだろう。
ひろゆき氏は「自分へのご褒美を送るやつはバカ」という意見も出していたが、それは自分の機嫌を取るために無駄な出費を伴うのが癖づく、という警鐘からだった。
だから、”この嫌な仕事を乗り越えたら、どんなに楽しいことを用意してやろうか”と、じっくり時間を掛けて考え抜いておけば、それは無駄遣いには該当しないだろう。
僕みたく「くそ真面目」と評される人は、その後の褒美の設計がとにかく下手だ。嫌なことの処理は、その刺激そのものだけではなく、その後も設計しておくべきといえる。
実は明日もまた憂鬱なことが想像できる1日なのだが、だからこそ終わった後には強い快の感情を多分覚える。それをさらに膨らませるような褒美を、今から考えたく思う。
そうすると、その未来によって、その前段階の嫌なことも肯定できそうな気がしてきた。これが、ポジティブ解釈の本当のところ、なのかもしれない。
では今日はこの辺で。