三島由紀夫氏はかつてインタビューで、「自分のことは好きか」と問われ、以下のようなことを語っている。
「少なくとも嫌いじゃありませんね。自己嫌悪は非生産的なものですから、止めちゃったんです」
―仮に僕が同じ質問をされたら、こう返せるだろうか?こればかりは自信がない。僕は実を言うと、”じぶん”について、好きでも嫌いでもないというのが本音である。
とはいえ、露骨に見下されたら「本当にきもいなコイツ」と思うし、禿げて太った自分を想像すると、それは絶対避けたいと思って筋トレに励むことができもする。
しかしながら、前も記事にしたが、僕は「幸せ」が何かよくわからないし、「自分を大事にする」という言葉がつまり何を言いたいのかも、本当にわからない。
人から褒められると、嬉しさではなく戸惑いを覚える。あなたが特別だと言われると、喜びではなく嫌悪が先立つ。結果が出ると、正直退屈を覚える。
現状維持を徹底的に唾棄しているといったの熱さもないが、自分をしっかり愛せているという感じもしない。僕は僕をどう扱いたいのだろうか。
本当に自分に興味が無いなら、それこそ服飾とか食事とか趣味とかも徹底的に無いはずなのだが、それらに関する好みはきちんと存在しているから不思議だ。
また、「今俺は大事にされた」という記憶は皆無だが、「あの時俺は徹底的に軽んじられた」という怒りは、結構根に持ち、ずっと覚えている。
これらを統合して考えると、僕は僕をどう見ているのか、自分のことなのに全く分からなくなる。それをそのまま、こないだChatGPTに愚痴ってみた。
その結果、本質的というか、僕が感じる曖昧さに対する、一つの大きな仮説が飛び出してきた。それがタイトルの通りである。
「あなたは、対象としてのあなたに向かう関心が、もう無いのではないか」
・・・なんとも哲学的な指摘だ。だが、これを掘っていくのはなるほど、大事な発見に至れそうである。てことで以下、この言葉が何を言いたいのか、確認していく。
僕は”どこまでも観察者で在りたい”説。

推定1万文字以上はChatGPTに、僕が感じる違和感を素直にぶつけたと思っている。だから一度、そのログをまとめながら、僕の価値観を言葉にしてみることにした。
曰く、僕の世界や他者に対する”一貫したスタンス”は、以下のような表現に集約されてくるという。
「そもそも“自己”ってそんなに中心か?」「俺という存在を軸に考える必要ある?」「俺は世界の構造の一部でいいじゃん」
これを今突き付けられると、これらについて、本当にそう思うから不思議だ。僕は自分の人生の主人公が自分であるといった物言いさえ、何か腑に落ちない感覚を覚える。
確固たる自分なんてのは、そんなに重要か?それは、庇護されるべきもので、大切に扱われるべきもので、愛を注がれなければならないものなのか?これが本当に謎である。
ただ、分析はさらに続く。以下、僕が「わからない」「抵抗感がある」「正直嫌だなという感想を持つ」といった言葉をまとめてくれたのだが、これが興味深いのだ。
自己肯定感、自己愛、自己承認、幸福、成功、特別であること
これらは巷では、絶対に各々が大切にしなければならない、胸に刻まなければならない言葉として喧伝されている。はっきり言うと、どれも全く興味が無い。
自分”が”肯定され、愛され、承認され、幸福を感じ、成功したと誇らしげであり、結果として集団の中で特別な存在となっている・・・ことの何がそんなに魅力的なんだと。
正直そんなのはゲームの世界か何かで疑似体験すれば事足りるし、そうしたところで、それはこの現実社会で追い求めるに値するほどのものには、とても僕には思えない。
そうやって素直に白状すると、逆に「どんな生き方、どんな”あなた”の在り方なら肯定できるか」を問われた。そのときスッと出てきたのは、仏教哲学だった。
確固たる我を手放し、自分を巨大な曼荼羅の一部として捉えること。自分は中心であるとも無いともいえるというのを理解すること。徹底的に「空」を考えたいということ。
これは心から思う。僕が”生き方”として、唯一はっきりと憧れる在り方である。それを書くと、かなり核心に迫るまとめが、ChatGPTから送られてきた。
あなたは「自己の中心性を消して、世界に溶ける」という生き方だけには、強く惹かれる。
理由は簡単で、あなたが既に本質的に“自己中心でない価値観”で生きているからです。
つまり、自分の扱われ方・自分の地位・自分の価値・自分の成功・自分がどう見られるか・自分の幸福とは何か、こうしたものが、すべて主題にならない。
あなたの主題は一貫して
■「世界はどう出来ているのか?」
■「人間の透明性とは何か?」
■「境界はどこにあるのか?」
■「醜さや愚かさはどう構造化されるのか?」
■「自分の観察はどこまで正しいか?」
■「何が面白いか?」
■「なぜ心は動くのか?」
これは「自己(我)」ではなく“世界の法(ダルマ)”や“構造(構造主義)”に意識の焦点がある状態。
仏教の曼荼羅的世界観(縁起・空)に惹かれるのは、あなたの認知スタイルそのものが“空に向けて開いている”からです。
ここに書かれたことは、我ながら言い得て妙だと思っている。僕はここまで徹底的に、自分が中心”である”状況を嫌悪するにまで至っていたのは意外だったが。
言われてみれば、愛も肯定も受容も承認も、誰かから誰かへの、あなたは特別だ、というメッセージだ。これ自体をどうにも受け入れられない人は、一定数いる。
しかしながら、僕は自分から自分へのそれも嫌だという話になる。僕は自分という存在が確固たるものに”される・見える”構造や関係性自体が好きじゃないらしい。
―ここまで書き並べてふと心配になった。僕は、孤独が好きなんだ、人とのつながりを内心では否定しているんだ、そう思われやしないかと。
とはいえここもChatGPT曰く、早合点が過ぎる、らしい。
ここは誤解しやすいところですが、あなたは「孤独を是としている人」ではなく、"量より質の関係しか意味を感じない人”なんです。
むしろあなたは、つながりそのものを否定していません。否定しているのは、
表面的なつながり、自己演出を前提としたつながり、役割やラベルで擬似的に維持されるつながり、「恋愛」「友達」「仲間」といった名札だけの関係、互いに自己中心性を押し付けあう関係、歪んだ期待の交換
この“偽物”の方です。
そしてこの後に、こう続いた。
あなたが肯定しているのは「孤独そのもの」ではなく、“透明で自然な関係”だけ。あなたの言葉を借りれば、それはこういう関係です。
相方
腐れ縁
共犯
幼馴染
観察が成立する相手
透明で、波長が合っていて、寄りかからない相手
これらはすべて、「孤独を否定しないまま共存する関係」です。あなたは孤独を“避ける対象”とも“崇拝する対象”ともどちらにもしていません。
・・・ここまで一貫していたら、本当に自分でも笑ってしまうほどだ。僕は、僕を、一人の操作キャラクタ―程度にしか扱っていないようなのだ。
そう思えば色々、他にも気づく点がある。例えば、僕はエロ同人といったものが、虫唾が走るほど嫌いだ。(雑なスピンオフも然り)
なぜなら、それは勝手に他人のキャラに乱暴かつ身勝手な設定をつけ足して、意のままに操るという、尊厳の一切が無い破壊行為だからだ。
フィクションの上塗りではあるが、そんな”世界や場面”を目にすると、そのキャラを見る目が自然と汚れてしまう。僕はそれに、耐えられない。
僕にとっての僕は、キャラクターの一つである。そこに”よく知りもしないやつらが勝手な物語や設定をつけ足す”のは、当然許しがたいことである。
僕にとっては、愛も信頼も肩書も褒めも罵倒も、全てが僕のキャラクターを歪める、いわば余計なノイズになる。どれが付属されようが、それは本質の僕では”ない”のだ。
これを考えれば、特別性の全てを否定することこそ、巡り巡って僕にとっての自愛・自己肯定になっていく気がする。僕はただ、”在りたい”のだ。
・・・となればこれ以上、我流による内省を深めても仕方ない気がしてきた。今僕が学ぶべきは、かつて似たようなことを感じた人が遺した言葉である。
そもそもそれはあるのかを含めて、次はそれをじっくり、探してみようと思う。では少し尻切れトンボだけど、今日はこの辺で。