詳しくは書かないが、一時期色々あって、「脆弱ナルシスト」という人格について調べていた。本棚にある、その頃に読んだ本を見ると、色々な思いが込み上げてくる。
ただし、それを読みながら、同時にある”怖いこと”を思っていたのも覚えている。それは、「僕もまた、脆弱ナルシストではないか」という仮説だ。

うろ覚えではあるのだが、「自分の短所・地雷に触れられることを極端に嫌がり、それに触れると烈火のごとく怒ったり、他人に責任転嫁したりする」とかがそうだ。
具体的には、他人の容姿をすぐイジるのに、自分の容姿をイジられるとめっちゃ怒って、しかもしばらく機嫌が悪い、そんな人を想像してもらうといいかと思う。
―さすがにここまでわかり易い露骨な感じではないのだが、僕もまた、”触れられると非常に不愉快になり、自分以外の誰かのせいにしたくなる”スイッチが幾つかある。
これが厄介なことに、自分でもどこにあるかがわからず、人からイジられて不快になり、初めて「あー、これが俺の地雷なのか」と気づくのだ。
どちらかといえば明確にコレ、ソレと区切れているわけではなく、自分の機嫌や成長に伴って緩やかに変化する、スペクトラムな感じなんだと捉えている。
・・しかし、こういった「地雷」を分析すると、実は自分が大事にしている”あるもの”が浮かび上がってくる、という話を聞いたこともある。
その”あるもの”とは、【理想の自分】だ。これを実は大事にしているからこそ、イジりなどでそれを毀損されると、途端に激昂が始まる、と。
―なるほど、なるほど。それ自体はすごく納得だ。そしてその【理想の自分】は、僕もまた、実ははっきりと理解してはいない。そもそも地雷の位置さえ曖昧なのだから。
ただ僕は、その【理想の自分】をはっきりと理解したら、”そいつ”に対し、一言はっきり言いたいことがある。今日はそれを突き止めて、それを言い捨てるまでの話である。
僕がまだ捨てられない【理想像】とは?

僕が「嫌だ!認めたくない!」と思った言動や出来事を振り返り、それを列挙してから”ひっくり返す”と、僕が”こう在りたいと実は思っている自分”が見えてくる。
仕事はいつもミスなくこなし、自分が提供する仕事は常に顧客から支持・信頼を勝ち取り、ついでに言えば戦闘力の高い身体もきちんと維持している、という感じか。
こう考えるとすぐに理解できる。僕の理想像はなんとチャイルディッシュなのか、と。なんというか、あまりにも世界と他人に対して無邪気過ぎる。
それは例えばゲームのように、完全に設計されたシナリオの中で”だけ”可能な異常事態である。どれだけ聖人だろうが、それが嫌いなアホもいるのがこの世なのだ。
僕は自分が理想とする世界が果たされる日を信じている。だから、自分も世界も他人も、ひっくるめて、無条件に、信じたいのかもしれない。
目がビー玉のようにキラキラと輝いている、言っちゃ悪いが世間の灰汁を知らないまま、平和的な世界を夢見ている小学生の姿を頭に浮かべてしまう。
それが僕の理想像なのだとしたら、僕は僕に言いたいことがある。それは以下、詳述する。
僕がそいつに言いたいこと。

先ほどのが理想だとして、正直、僕が同じことを余所者に言われても、”知らねーよ”としか思わない。むしろ、”テメーの価値観を押し付けんな”、と思う。
即ち結局、どこかの誰かの理想など、所詮はそんなものなのだ。だから僕は言いたい。「知ったことか」と。
例えとしてどうかは知らないが、石油無き世界、家畜無き世界、それを理想とか美徳とかいう風潮に、僕は微塵も賛成できない。
ここが面白いのだが、僕は僕の理想に対しても、そう思っている自分がいる。お前の理想は、机上の空論過ぎる。それが果たされないことに傷つくのはイタいだろ、と・・。
・・・・・僕は、自分の理想像をクッキリさせて、そいつに釘を刺せば、それで満足”している”はずだった。だがここまで書いて、一つ、滅茶苦茶謎なことに気付いた。
これはまた別の記事に書き直したいのだが、そのさわりだけ、忘れずに書いておく。
僕は、どれだ?

僕は自分の理想像について、「子供が描く完璧人間そのものと、牧歌的で過度に単純化された世界」だと整理し、理解し、納得してそう思っている。
そしてそれを、「34歳のオッサンが抱くには、あまりにもおこちゃまなまま更新されていなくてイタい」とも、整理し、理解し、納得してそう思っている。
ところで、それら2つの対立構造を俯瞰しているこの顕在意識である”僕”は、一体何なのだろうか?
イメージとしては、ギャースカ泣き叫ぶ子供を冷ややかに見下ろす親、その光景を見ている第三者がこの意識である、と思っている。いわば、三人目の自分ということか?
僕の顕在意識とは、常にその比率が変わるものの、感情的な自分と理性的な自分のミックスだと思っていた。だがそのメタファーが、合っていないのだとしたら?
私とは何か、ではないが、「僕とは、どれか?」というのは、今後の自問自答における非常に重要な問題になるように、ふと思えてきている。
では今日はこの辺で。