精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

心の強さは、自分が直視してきた己の弱さの量に比例する説。

最近、「ブレない心」についてよく考える。特に、先天的な鈍感さを持たず、むしろ敏感・繊細なメンタルである人が、どうそれを獲得するかに興味を持っている。

 

それについて、集中的に考えたり学んだり試したりしているわけだが、「ブレない心」を獲得するのに必要な条件というものが、ここ数日で急に腑に落ちつつある

 

まだまだ仮説の段階だが、その条件とはこんな感じだ。「心の強さは、自分が抱える不安をどれだけ直視し、真正面から受け止めてきたかの“総量”で決まる。」

 

今日はその仮説について、以下うだうだと話してみたい。

 

 

心に巣食うはぐれメタルを倒すかのごとく。

 

もともと僕はメンタルが特別強いわけではなく、むしろ驚くほど些細なことで揺れやすいという自覚がある

 

ただ、年齢を重ねるにつれて、流石に若い頃よりは確実にブレにくくはなってきている。しかし同時に、いつまで経っても苦手なままで残り続ける部分も存在している

 

それはいわば「個体差」のようなもので、弱点が強みになることはなかなかあり得ないように、それは永遠に受け入れて向き合い続けるしかないのだと、ずっと思っていた。

 

ところが同時に、過去“弱点”として納得したもののはずなのに、いつの間にか綺麗さっぱりどうでもよくなったものも、少なからず存在する。

 

それはずっと「ただ歳を重ねたから鈍くなっただけ」という浅い理解に留めていたのだが、改めてその理由・背景を考えてみると、ひとつ大きな共通点が見えてきた

 

それは、克服できたものは例外なく、「なぜそれが不安なのか」「自分は何を恐れているのか」と問い続け、徹底的に相対した結果、言葉にできていたものだったのだ。

 

それこそ、感情的な“やばい”や“キモい”、”なんかイヤ”といった言葉に逃げず、ChatGPTの力も借りながら、数万字に至ろうと、ひたすら観察して言語化したつもりだ。

 

そしてその果てに、「あれ、思っていたほど大したことではないな」と気づけた端から、自然とどうでもよくなっていった、という感じである。

 

と同時に、その対象が長く心に存在していたものであればあるほど、一つ一つを制した時の経験値は大きいようで、メキメキと心がいい意味で鈍化するのを感じるのだ。

 

自分の中で“分からないまま蓋をしてきたもの”は、いわばそれこそ真っ先に倒すべきモンスターのような存在である。僕のクエストは、逃亡ではなく闘争で進む。

 

その中でも特に長く、それこそ幼少期から苦手として抱えてきたものほど、はぐれメタルメタルキングのように手強く、同時に倒せた時の経験値は莫大だと感じている

 

こうした考え方を持つようになってから、自分の心の中で何かが反応し、メンタルが揺さぶられる瞬間を、むしろ”待ち望むような感覚”を抱くことが増えた

 

「うわっ」「げっ」「めんどっ」「いやだなぁ」「なんかイライラする」といった感覚が心に生じたら、即座にキャッチし、絶対に逃がさないようにしている

 

それらをメモに起こし、ブログに書き、徹底的に突き詰めて、言葉にして征服する。それを取り入れて以来、心が急ピッチで鍛えているようなワクワク感を覚える。

 

これに気付いてからというもの、「真の動じない人」とは、ただの“鈍感な人”ではなく、むしろ感受性が際立って高い人なのではないか、と僕は考えている。

 

ただ、その感受性を武器にして、自分の感情・感覚・違和感・不安の全てを観察し、理解して制してきた、ある意味自己内省の鬼と呼んでいいレベルに練度が高い人だろう

 

後天的にその強さを得た人は、「動揺」と徹底的に向き合うことを、意識的に夥しい数重ねてきた、それこそ求道者である

 

そう思えてから、僕は僕の感情が揺れる瞬間を、どこか待ち望む気持ちになれているから不思議である。まぁ、これが本当に合っているのか、それはまだわからないけど。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

 

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