最近、「ブレない心」についてよく考える。特に、先天的な鈍感さを持たず、むしろ敏感・繊細なメンタルである人が、どうそれを獲得するかに興味を持っている。
それについて、集中的に考えたり学んだり試したりしているわけだが、「ブレない心」を獲得するのに必要な条件というものが、ここ数日で急に腑に落ちつつある。

まだまだ仮説の段階だが、その条件とはこんな感じだ。「心の強さは、自分が抱える不安をどれだけ直視し、真正面から受け止めてきたかの“総量”で決まる。」
今日はその仮説について、以下うだうだと話してみたい。
心に巣食うはぐれメタルを倒すかのごとく。

もともと僕はメンタルが特別強いわけではなく、むしろ驚くほど些細なことで揺れやすいという自覚がある。
ただ、年齢を重ねるにつれて、流石に若い頃よりは確実にブレにくくはなってきている。しかし同時に、いつまで経っても苦手なままで残り続ける部分も存在している。
それはいわば「個体差」のようなもので、弱点が強みになることはなかなかあり得ないように、それは永遠に受け入れて向き合い続けるしかないのだと、ずっと思っていた。
ところが同時に、過去“弱点”として納得したもののはずなのに、いつの間にか綺麗さっぱりどうでもよくなったものも、少なからず存在する。
それはずっと「ただ歳を重ねたから鈍くなっただけ」という浅い理解に留めていたのだが、改めてその理由・背景を考えてみると、ひとつ大きな共通点が見えてきた。
それは、克服できたものは例外なく、「なぜそれが不安なのか」「自分は何を恐れているのか」と問い続け、徹底的に相対した結果、言葉にできていたものだったのだ。
それこそ、感情的な“やばい”や“キモい”、”なんかイヤ”といった言葉に逃げず、ChatGPTの力も借りながら、数万字に至ろうと、ひたすら観察して言語化したつもりだ。
そしてその果てに、「あれ、思っていたほど大したことではないな」と気づけた端から、自然とどうでもよくなっていった、という感じである。
と同時に、その対象が長く心に存在していたものであればあるほど、一つ一つを制した時の経験値は大きいようで、メキメキと心がいい意味で鈍化するのを感じるのだ。
自分の中で“分からないまま蓋をしてきたもの”は、いわばそれこそ真っ先に倒すべきモンスターのような存在である。僕のクエストは、逃亡ではなく闘争で進む。
その中でも特に長く、それこそ幼少期から苦手として抱えてきたものほど、はぐれメタルやメタルキングのように手強く、同時に倒せた時の経験値は莫大だと感じている。
こうした考え方を持つようになってから、自分の心の中で何かが反応し、メンタルが揺さぶられる瞬間を、むしろ”待ち望むような感覚”を抱くことが増えた。
「うわっ」「げっ」「めんどっ」「いやだなぁ」「なんかイライラする」といった感覚が心に生じたら、即座にキャッチし、絶対に逃がさないようにしている。
それらをメモに起こし、ブログに書き、徹底的に突き詰めて、言葉にして征服する。それを取り入れて以来、心が急ピッチで鍛えているようなワクワク感を覚える。
これに気付いてからというもの、「真の動じない人」とは、ただの“鈍感な人”ではなく、むしろ感受性が際立って高い人なのではないか、と僕は考えている。
ただ、その感受性を武器にして、自分の感情・感覚・違和感・不安の全てを観察し、理解して制してきた、ある意味自己内省の鬼と呼んでいいレベルに練度が高い人だろう。
後天的にその強さを得た人は、「動揺」と徹底的に向き合うことを、意識的に夥しい数重ねてきた、それこそ求道者である。
そう思えてから、僕は僕の感情が揺れる瞬間を、どこか待ち望む気持ちになれているから不思議である。まぁ、これが本当に合っているのか、それはまだわからないけど。
ということで、今日はこの辺で。