昨日の記事でも触れたが、自分の中で折り合いがついていない思い出や感情を、逆に徹底的に意識の上に引きずり出し、それがなぜ嫌なのかを意識的に紐解こうとしている。
自分の過去の記憶の生態解剖とでも言えばいいのか、そういう自己分析的な時間を、最近また、”楽しいからこそ”、意識的に取っている。
特に今日は、過去食らった、本当に嫌で嫌で仕方がなく、今も時折蘇って僕に不快な感情を想起させる、そんなトラウマと言ってもいい記憶について、考え直していた。
例えば、理不尽にキレられた日雇いバイトの記憶や、意味不明な理屈でクレームを言われた割と最近の記憶、ただの八つ当たりなど、嫌だったが、あれこれ思い出してみた。
そういった記憶は今でも僕の中で、グツグツとマグマの如く残っており、正直、突発的にそれを思い出してしまうと、未だにあの頃の強さで”イライラする”。
そしてそれらに何年経っても振り回されることには、本当にいい加減嫌気がさしている。だからこそ、腰を据えてガッツリと、向き合ってみた次第なのだ。
今日はそのプロセスを、何かしらの参考になればということで、以下記事にしてみたいと思う。
「うわぁ、マジで…」
特に意外な自分に気付けたのは、ChatGPTに提案され、「その不快な記憶を残した相手に、今なら何を言いたいか」を考えたことがきっかけだ。
流石にそれをここには載せないが、結構酷いことをなるべく臆せず書き出し、それを客観的に分析してもらったところ、ある面白いことを指摘された。
僕は、そういった言動をしてきた”相手に対しては、別に怒っていない”ようなのだ。例えば本当にそうなら、そいつを殴りたいとか、実害ある復讐をしたいとか思うだろう。
だが僕は、そういった衝動は全くなく、それよりも、相手の存在や、記憶そのものを消し去りたいという強い感情と書いた方が正しいようなのだ。
僕はそれを”激怒”だと思っていたが、それならば相手自体への攻撃が先立つはずだ。しかし体感としては、とにかく消したい、遠ざかりたいという回避の感情が強い。
となれば、以前も辿り着いた結論に、また今回も別ルートから至れたようだ。僕の爆発する感情は怒りではなく、強く激しい”嫌悪”なのだ!
実際、その過去の記憶を思い出すと、「あぁ、腹立つ!」ではなく、とにかく強烈に気持ち悪い!!!という感覚が湧いてくる。実際、身体反応も怒りより嫌悪寄りだ。
そしてその後も、ChatGPTに従うままに、僕がその記憶を刻んだ相手に言いたいことを煮詰めて煮詰めて短く、強くしていくと、ある身も蓋も無い一言に集約された。
それは、「うわぁ、キモッ・・」だ。本当にそれだけだ。実際僕にとっては、絶句するほど”キモい”のだから、仕方ない。
思い返しても、あの記憶に対して僕が抱くのは、「キモい」という感情だ。正直、腹立たしいとか、傷つけられて辛いとか、微塵も思わない。ただ、キモい。
特に何にそう思うかというと、程度の低いヤツなのに、世間を母親と思っているかの如く、感情や要望を他人に一方的にぶちまける、その構図自体だ。
ここだけ切り取ると、僕は頭の悪い奴が嫌いと言う、自分こそ全能感あるプライドの塊という人間に見えてくるのだが…実際は、もっと根深い。
僕はそもそも、自分にさえ優越感を認められない。なぜならキモいからだ。自己肯定感という言葉が実は好きじゃないのは、僕を”あいつら側”に近づける考え方だからだ。
そんな意識があるからこそ、雑な認知で、他人に向かって低レベルな感情をぶつけてくるという構図が、本当に、どうしようもなく、気持ち悪い!!!!!!!
それが僕の本音だと気づいたとき、思わず自分で、膝を打った。なるほど、なるほど。つまり僕は、ただ気持ち悪がっていただけなのだ。
反撃できなかった自分が悔しい、傷つけられて悲しい、己の無力さに腹が立つ・・・。どれもこれも、違う。もっと前段階で、僕はそれが心に染み入るのを拒否していた!
いわば道端に落ちているゲロを見て、「うわ、キモい」と感じていたのと同じだ。ゲロを殴りたい人間は居ない。立ち去るか、しっかり掃除すれば、それでいい。
実際、先述のような理不尽を受けた後の僕は、落ち込んだのではなく、気分が悪すぎて飯が食えない状態になっていたように思う。胸が詰まった感覚を覚えていた。
それこそ、強烈な悪臭を放つ生ゴミを掃除した後に食欲なんて湧かないという、その構図とぴったり同じだ。それが僕の反応の正体なのだと気づけたのは興味深かった。
―と同時に気になったのは、ではこの「嫌悪」に対する耐性を、どう高めていくかという点である。
例えばクモが苦手な人でも、小さいクモ、おもちゃなどで少しずつ訓練し、慣らすことで、いずれ”平気”とか、”ちょっとだけ嫌”という程度に落ちつけられるのだという。
ならば、こういった認知行動療法的なトレーニングを我流で開発し、機能させられれば、これ以上キモいものに振り回されない人生が送れるのではないか?
次はここをしっかり考えてみたくなった。やはり考え抜いた先には、新しい問いが待っているようである。こうして自己観察を深めるのは本当に面白い。
つくづくそう思う。
では今日はこの辺で。