「動じない」「ブレない」人と聞くと、僕は相当な傑物だと思う。歴史上の人物でいえば、パッと浮かぶのは山岡鉄舟や足利尊氏のエピソードである。
だからこそ、この境地はいわゆる天賦の才なのか、はたまた時代そのものがある意味狂っていたからこそ開発されるマインドなのか、そのどちらかだと思っていた。

夜道を歩いていれば辻斬りに遭うとか、不義を働けば自刃を強いられるとか、そういう末路が取り除かれた平和な世には、「動じなさ」は不要なのかもしれない。
とはいえ、いちいち刺激を受けるたびに心が揺さぶられるとなると、人間味あふれると言えばそれまでだが、なんと忙しなく、落ち着きのない、浮ついた人生だろうか?
そこで今日は、「動じない」について抽象的ながら色々調べてみたことの内、僕にとって腹落ち感が強かったものを、一つの記事にまとめたいと思う。
”動じない”の極致は”木鶏”なのか。

意外っちゃ意外なのだが、「動じない」という言葉を調べていくと、結構早い段階で横綱・双葉山関に辿り着いた。彼こそが、”動じなさ”における求道者なのだ、と。
有名なエピソードは、未曽有の69連勝を止められた後、師匠に送ったというコメントだ。そこで彼は短く、「我、未だ木鶏たりえず」と書いたそうだ。
木鶏とは、中国の寓話において、「不動・無心」の象徴だとされる。敵に対しても全く動じず、仮に大声をあげられても表情一つ変えないほどの闘鶏がそう呼ばれたという。
木像のように、全く微動だにしない状態。これが「動じない」の極致であるなら、それを目指した双葉山関を「求道者」と呼ぶ人が多いのも納得の話である。
‥ところで、「動じない」という状態をさらに深堀していくと、「泰然自若」という四字熟語にも出会った。これの意味は、辞書を引くと以下の通りである。
緊迫した状況にあっても常に落ち着き払っていて冷静な様。「自若」は普段の自分、「泰然」は落ち着いて動じない様を表す。
この分でいると、教場内へ乱入し兼ねまじき勢いに見えましたけれど、与八は泰然自若として驚きませんでした。(中里介山 『大菩薩峠 恐山の巻』)
この言葉には、不思議とすごく惹かれた。僕は正直、「動じないね」と言われるより、「泰然自若って感じだね」と人に言われた方が、嬉しいように思えてもいる。
だから今度は、この「泰然自若」という言葉について、さらに理解を深めてみようと思う。
”泰然自若”とはどんな状態か。

いささかの表記ゆれはあるが「泰然自若」とは、「泰然」と「自若」の2つの言葉が組み合わさってできているという説明は共通していた。
それぞれ、様々な意味を調べて、僕なりにまとめたものを紹介してみる。実を言うと細かい意味の違いは無く、強調のために重ねたという感じだそうだ。
泰然➡心安らかな状態。ゆったりと落ち着いていて、何事にも動じない
自若➡大事に際して、何事もないように落ち着いて振舞うこと
これを読むと、「実際に心が穏やかな状態であり、かつその振る舞いもまた落ち着いていてゆったりしている様」という風に僕は感じ取れた。
例えば動作はゆっくりしていても、内心は動揺しているならそれは泰然自若じゃないし、逆に内心は落ち着いていても動作がしゃかりきなら、それも違う、ということか。
そういう意味では、僕はあまり見た目や所作に出ていないらしいのだが、内心はしょっちゅう謎のことに揺さぶられているので、泰然自若とは程遠い、となる。
そこで、次に気になったのは”泰然自若に至る方法・心掛け”だ。何かしらの練習や訓練によって、その状態は現実的に目指せるものなのか、知りたいと思った。
その方法は、どうやらありそうだと分かった。だがそれは、日常そのものを修行とするような、強い覚悟が必要でありそうだ、ということもわかった。
しかしながら、僕にとってそれは逆に好都合だ。僕の座右の銘は日々自由研究であり、毎日を試行錯誤の中に置いておきたいというのは本望なのである。
ということで以下、”泰然自若を求道する人たちの実践”を、整理しながらまとめていきたい。
そもそも”泰然自若”とは、”なる”ものではないらしい。

双葉山関をはじめ、木鶏・泰然自若を目指した人は何を心掛けていたか。それには大きく分けて2つあると気が付いた。
一つ目は身体の動き、つまり所作だ。例えば双葉山関も、土俵上の所作は”非常に丁寧で、ゆったりしていた”のだという。ここには大きなヒントが隠されている。
所作をゆったり丁寧にしようと思ったら、無意識にそれを行うのではなく、動作の1つ1つを敢えて意識的に、かつ丁寧に行う必要がある。
適当にやるとは、言い換えれば熟練度がさほどでもないのに、考えなしに実行してしまうことだと言える。その逆が”丁寧”の意味だとすれば、すごく腑に落ちる。
そしてこの”所作を丁寧に行うこと”との強いつながりが見えるのが、2つ目の心掛けだ。それは、感情の観察である。
”泰然自若”とされた方々の発言を見ていると、自分が置かれている状況や感情でさえも、どこか他人事のように感じていることが伺い知れる。
それを当時の人は「無私・無欲」と捉えているのだが、僕は「観察力が抜群だったことに加え、それを常時発動するのが当たり前になっていた」と考えてみたい。
僕は僕が”在りたい境地”は、常々、”自分というキャラクターを一人称視点で操作している感じ”だと思っている。これもいわば、カッコよくいえば”外在化”だと言える。
”俺が”何か酷い目に遭っているのではない。”俺が”心をブレさせているのではない。自分という器を離れて他人事のように観察し、第三者としてそこにアプローチする。
感情さえ他人ごとのように観察し、その後で丁寧な所作を通じて心を整える。泰然自若とは狙って”なる”ものではなく、丁寧さに身を浸し、そう”ある”しかない。
狭い空間にスーパーボールを思い切り投げると、四方八方に反発し、部屋中を飛び回る。それを止めるには、ボールを追いかけながら、それを掴むなどの行動が必要だ。
それを追っている間、心はブレ続ける。落ち着くことは絶対にない。しかし、弾むボールを止める方法は、もう1つある。そう、何もしないことだ。
跳ねるに任せてしばらく観察し続ける。すると段々それはエネルギーを失い、やがて部屋のどこかに止まる。静寂がまた、訪れる。
泰然自若とは、ブレている状態を自覚しながらも、それが自然に鎮まっていくまでそう”あり続ける”という、そんな芯の強い構え方なのだろうと、今強く納得している。
では今日はこの辺で。