精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

僕が唯一「憧れてるし、そうなるために努力してる」生き方のモデル。

今日は、僕が「こんなふうに生きられたら、もっとのびのびと自分らしく、健やかに生きられるだろうな」と唯一思っている、生き方のモデルについて書いてみたいと思う。

 

とはいえ人それぞれ、理想の生き方のモデルなど”唯一”に近づくとは思うのだが、その中でも特に僕が大事にしたいと思っている、いわば”在り方”についての話である。

 

そもそも、「自分はどうなりたいのか。どんな姿にしびれ、憧れるのか。」というこのアイデンティティに関する問いについては、中学生の頃からずっと考え続けてきた。


ある時期は、悪役だけれど芯があり、単純に喧嘩が強いキャラに憧れたし、またある時期は、高い知性を持つ人物に強く惹かれ、勉強を本気で頑張ったこともある。

 

ただ、大学生くらいになると、憧れのテイストは少しずつ変わっていった。「フィクションとしてかっこいい人」よりも、「自分に正直な人」に惹かれるようになったのだ。

 

そしてこの、「自分に正直な人」をベースに内省・仮説立て・検証を繰り返していくうちに、自分の”在りたい”生き方のモデルが具体的になっていったイメージだ。

 

今日はその暫定解を、記事にまとめたいと思う。

 

 

大人になれないというより、大人になることを拒否し続けているだけ。

 

とはいえ、自分に正直なキャラ・性格なら何でもいいかというと、そうではないことにもおいおい気付いていった

 

例えば好色家かつ衝動的な冴羽遼やルパン三世のような人物像には、あまり惹かれなかった。飄々とする人はキャラとして好きだが、自分が在りたいとは別なのだ。


しかし、そのことは実感として抱きつつも、社会的に模範的な20代・30代の像がノイズとして多分に自分に入ってきて、その辺りを肯定し切ることが困難だったのも認める。

 

実際、就職活動の自己分析でこさえた「なりたい自分像」を、「これこそが自分なのだ」ということにしてみたが、それが違うと納得したのは20代後半のことだった

 

以来、34歳になる今まで、振り返ってみると「かっこいいとは思うが、なりたいわけではない」モデルはたくさんあったものの、それが関の山だった


しかし、段々それを繰り返していくうちに、そもそも「今の自分ではない何かになりたい」という前提が、かなりおかしいのではないかと思えてきたのだ。


むしろ、すでに自分の中にある、自分の軸のようなものをきちんと自覚し、それを昇華していくような在り方の方が、人生の指針としてしっくりくるのではないかと思う。

 

それについては断片的な気づきは過去何度か記事にしたのだが、今日はそれを”初めて”一つにまとめて、自分の理想の在り方として、以下書き残しておく次第である。

 

僕は僕の中のあいつを消したくない。

 

僕が憧れ、そして「こうありたい」と思っている生き方。それは、言葉を選ばずに言えば、とても子供っぽい人である。これは男女を問わない。生き様の話だからだ。


世間の呼ばれ方で言えば、「天然」「アホの子」と呼ばれるような人たちだ。僕はそういう人たちに、強い好意と憧れを抱くし、ファンとして、心から応援したくなる

 

塾にも、思わず「アホの子」と呼びたくなるような生徒がいる。その子が校舎に来ると、「今日はどんな面白いことを言ってくれるんだろう」と、自然と期待してしまう。

 

そして、今でも付き合いがある大学の先輩に、そういうタイプの人がいる。一緒にいると一挙手一投足の全てが面白く、心から楽しいし、不思議ととても落ち着く

 

そして最近、地元の友人たちと久しぶりに飲んだのだが、全員34歳になるのにその性根・発言が驚くほど子供のままで、本当に心の底から嬉しくなってしまったほどだ。

 

その一方で、僕が子供時代の自分をそのままさらけ出せる相手も機会も、年々減り続けているという寂しさも感じている。

 

だからこそ、「そうありたい」「そうなりたい」と思う気持ちと同時に、「それを失いたくない」という感覚を強く抱いている。

 

それはつまり、”自分の中の子供らしさを失いたくない”ということなのだと思う。そしてそれを守り抜くことが、僕にとっての理想の生き方なのだと確信しつつある。

 

相反するようだが、そんな僕はよく「考えすぎだ」と言われる。理屈や論理を組み立てるのが好きで、物事の背景や根拠まで考えたくなる性分だからだ。

 

そもそも日本語や英語といった「言葉」そのものも、かなり好きである。だから英検も漢検も取得できたのかなと思っているほどだ。

 

そういうのもあるせいか、やはり固くて、どこか大人で冷静という第一印象を持たれがちだが、実際は逆であり、知りたいからこそ調べ、説明し、言語化しているだけだ。

 

僕の中には、ちゃんと子供っぽい、無邪気な、思慮の浅い部分がある。そしてそれこそが僕の本性なのだと思っている。殻の中に居る本体は、まだあの日のままなのだ。

 

ただ最近、年齢のせいではなく、社会・会社の中での立ち位置などがあって、それを堂々と発露させることが難しくなってきていると感じている。

 

社会的な役割が増え、と同時にそんな子供らしさを出しても大丈夫だと思えるほど居心地がよく、成熟したコミュニティを、今の自分が持てていないこと。

 

そのせいか、僕が”素の自分”でいられるのは、年に数回、年末年始・GW・お盆くらいしかないと思っている。「あの頃の自分」でいられるのは、それだけなのだ。

 

それ以外の時間は、子供の部分を自分の中に閉じ込めている。護っているともいえるが、それが長引きすぎて、溶けて、消えてしまわないか。それだけが、本当に怖い。

 

極端な話、この子供らしさが失われたら、人生は色を失い、生きていても仕方ないと思ってしまうほどの無味乾燥たるものになってしまうのではないかと危惧している

だからこそ、この理想像は、「こうなりたい」ではなく、「このままでいたい」「失いたくない」という感覚に近い。

 

ただし、「天然」や「アホの子」を”演じる”と、途端にイタなる。これは不思議なほど、すぐ見抜ける。自分においてもなおさらだ。嘘をついてまではそうありたくない。

 

本当に天然な人は、何も考えず、頭に浮かんだことをそのまま口にしている。そこに計算や演出が入った瞬間、別物になる。自分がそれをやると、まず自分が萎える。

 

それもあり、僕は30代に入ってから「格好をつける」のを意識的に止めている。30代の男性には、包容力や聞き役としての成熟が求められるというが、そんなん知らん、と。

 

僕は、器が大きい人間ではない。相手がどれだけ美人であろうと、つまらない話には、つまらない顔をする。自分に興味のない話題を盛り上げる気もない。

 

しかし、そういう誓いを立てて以来、仕事の時間は年々増え、オフを取り、自分らしさが全開の状態で生きられる時間は、ずっと減り続けている。

 

そういえば近々、実家に帰る予定がある。昔のノートや文章など、記録された自分の過去が残っていないか、少し発掘してみようと思っている。

 

それくらい、僕はあの頃の自分を殺したくない。これが、僕が唯一「憧れる」というより、「そうあり続けたい」と思っている生き方の話である。

 

では今日はこの辺で。

 

 

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