本当にふと、頭に浮かんだ疑問がある。それは、僕はいつから、ここまであっさりと、
自分のことを肯定できるようになったのだろうか、という話だ。
振り返ると、ご多分に漏れず、自分のことが心底嫌いだった時期がある。今の自分で満足していいわけがない。周りがどれだけ認めてくれても、自分自身が納得できない。

理想の自分、こうあるべき姿、そうした「まだ到達出来ていない自分」と、今の自分との差ばかりを見ては、ひたすら自分を削り続けていた。
今思えば、自尊心がこじれ倒していたとしか言いようがない。よく友達がゼロにならなかったなと、本当に時間差で強い感謝を覚えるくらいだ。
それが今では、自分を肯定できない!嫌い!…という嫌悪の感覚自体が、ほとんどなくなってしまった。過去の自分が見たら度肝を抜かすのではなかろうか。
別に、「今の自分が歴代最高」と思っているわけでもない。ただ、良くも悪くも、今の自分は別にこれでいいじゃん、というところに落ち着いている。
かつてあれほど強かった「自分が嫌い」というエネルギーが、きれいに無散してしまった感覚に近い。では、それはいつから可能になったのか。
そう考えてみると、ちゃんと振り返ったことがなかったなと気づいたが、その心当たりはすぐに2つ、閃いた。今日はそれを以下、丁寧に分析してみようと思う。
一度無価値になってみたが、世界は何も変わらなかった。

思い返してみて、明確に「転機だった」と言える出来事の一つ目は、適応障害になったことだ。これは23歳~24歳頃の話である。今でもこの4〜5か月は、記憶がほぼ無い。
当時は1日15時間労働が当たり前という場所で、時が経ち、自分の中に慣れや成長があればラクになるということだけを拠り所に数か月耐え続けた結果、本当に心が折れた。
精神科に行って診断を受けたところまでは覚えているが、それ以後は何をする気力も湧かなかった。死ななかった理由も、単に死ぬ元気すらなかったからだ。
当時の僕は、「自分は人より劣っているから、頑張り続けなければならない」という思い込みを、疑いもせずに抱えていた。頑張らない自分など、無価値も同然だと。
それが、頑張れなくなってみて、初めて分かった。別にそれでも世界は何も変わらないし、自分が動けなくなったからといって、世の中が崩れるわけでもないのだ、と。
良くも悪くも、世の中は自分のことなど全く気にしていない。世間も自分も、お互いがお互いに影響を与えているという思い込み自体が傲慢なのだ。
この感覚に辿り着けたことは、今振り返ると、人生でもかなり大きな収穫だったと思っている。とはいえもう二度と、あの奈落に戻りたくはないのだが…。
「本を100冊読めば一気に観点が変わる」はガチだった。
二つ目は、読書を完全に習慣化したことだ。もともと本は好きだったが、「毎日読む」という形で生活に組み込めたのは、21歳になってからである。
本を通じて多くの人の考え方に触れ、多種多様な価値観を知り、それを自分に当てはめて思考する。結構愚直かつ自然に、この積み重ねを続けていった。
よく言われる話だが、本を100冊ほど読んだあたりから、考え方が一段切り替わる感覚を得られるという。結構その瞬間を楽しみにしていたが、すごく時間が必要だった。
そもそも僕は、大量に”新書”を読むタイプではない。割と再読型であり、完全に新しい本に触れるのは、年に10冊もないくらいである。
それでも累計で数えていった結果、触れた数が100冊を超えたのは、ちょうど30歳前後だったと記憶している。
そして時を同じくして、自分とはまったく違う考え方で生きている人の思想を、自然に受け取れるようになったと感じている。無理に否定もせず、無理に同化もしない。
「まぁ、そういう生き方もあるよな」と、良くも悪くも強い興味や関心を寄せることが無くなったという感じである。
振り返れば、読書を習慣化して以来、ゆっくりと蓄積されてきたなにかが、ある瞬間に一気に表に出てきた、そんな感覚だった。
・・・この二つが重なって、今の僕があるように思う。正直、だからといって人生を丸ごと肯定できるとまでは言わない。消したい黒歴史など山積している。
ただ、自分の人生を「過度にマイナスなもの」として扱うことはなくなった。それだけで、十分すぎるほど楽になったと思っている。
もちろん再現性のある話ではないし、「この生き方はいいよ」なんて誰かに勧めたいとも思わない。あくまでも、僕の思い出に過ぎない。
でも、自己否定を止められるようになって、本当に良かったなと、そんな小並感溢れることをどうしても考えている。
では、今日はこの辺で。