この記事を吹き込んでいる時点で、2025年も残り2日になっている。そして正直、年末年始らしい話を無理にする必要はないと思っている。
ただ、いわゆる冬季講習という超繁忙期なのもあり、全く書くネタが思いつかないので、今回は軽く2025年の振り返りでもしてみようと思う。

2025年を振り返って、思うことは何か。改めてそう尋ねられると、実は即答できない。一言で括るにはあまりにも大きく、濃い出来事が連続したからだ。
というより、立ち止まってしっかり言葉にしてしまうと、それは僕の”邪魔になる”という感覚があったのだ。だが、もうそろそろ、見つめ直してもいいだろう。
そんな激動の2025年、なるべくポップに振り返ってみよう。
圧縮された2025年を解凍する。

2025年は、決して何もなかった年ではない。むしろ、振り返ればそれなりに大きな出来事だらけだった。ただ、それを具体的に語ることは、コンプライアンス上できない。
それでも一つだけ確実に言えるのは、「当たり前に続くと思っていたものが、そうではないと知った年だった」ということだ。
その現実を前にして、必死に自分なりに足掻きつつ、どこまでが自分の限界なのかを、かなり冷静に把握させられた。そういう意味では、学びの多い一年だったと思う。
2025年に「休み」と思えた日は、何日あっただろうか。脳内でヘンなものが出ていたから平気だっただけで、今年は確実に、ストレスが身体や精神に影響を及ぼしていた。
ただし、「魂を削って頑張った一年だった」みたいな区切り方は、正直かなり嫌いだ。
なぜなら、それはまだ終わっていないし、終わらせる気もないからである。
できることと、できないこと。思っていた以上に自分はやれる、という発見もあれば、ここまでは及ばないのだな、という限界の確認もあった。
その過程で、かつてあった苛立ちや感情の乱れは、ほとんど消えてしまった。期待といった、いわば自分がコントロールできないものへの信頼は、ほとんど失せた。
それはそれで心が穏やかにはなったものの、結果として、「これをしていれば楽しい」「あれをしていれば幸せだ」といった感覚すら、一時的に分からなくなった。
とはいえ、感情が鈍化してしまったことで、逆に見えたものもある。それは、僕自身がどういうときに、【快】の感情を覚えるのか、というトリガーだ。
例えば幸福や信頼、充実感といった快い感情は、「誰かにしてもらう」ものでも、「結果を出せばそうなれる」ものでもなく、「することでなれる」ものである。
何かをしている最中、そのプロセス自体が、自分にとって最たる楽しみ。結果が何か出たとして、それ自体は自分にとって、そこまで嬉しいものとして機能しない。
そのことに、心の底から納得を伴い、気づけた。これが2025年の最大の収穫かもしれない。まぁ正直、おせーよ、という話なのだが。
日帰り旅行で言うなら、温泉に入っている時間は勿論安らげるが、正直一番ワクワクするのはその道中だ。目的を”叶えてしまったら”、意外とつまらないのである。
そう考えると、2025年を総括すれば、良くも悪くも「色々なことに諦めがついて、自分自身がスッキリと整理された年」だったと言える。
感情的な、自棄による諦めではなく、かなり冷静で、我ながら論理的な諦めだ。それでもなお、「この分野はまだ行けるはず」という感覚も、一部自分の中に残っている。
長い間、自分の中でカオスのままだったものが、ようやくまとまった。それを考えるに、2026年の僕は、人間的な広がりにおいては、そこまで派手な変化はないだろう。
むしろ、外から見ればますます「よく分からない」「闇が深そう」と言われるような存在になっていく気がしている。
だが、自分の中では、その計り知れない部分の厚みが増していくことこそが、つまり人間的な成熟だと思っている。
理解されなくなっていくこと、把握されなくなっていくことは、むしろ望むところなのだ。それこそ、自分が自分の在りたいように在りつつも、成長している証左だ。
『金閣寺』の中で、主人公が「理解されないことこそが存在の本質だ」という趣旨のことを語っていたが、あの感覚には強く共感する。
とはいえ、これ以上語ることも特にないので、今日はこの辺で終わりにする。