17〜18歳の頃、友達か誰かに送ったメールで、僕はこんなことを書いた。「俺は嫌いな人が頭に浮かばないくらい、あまり細かいことにカリカリしない性格なんだよね」と。
当時の僕は、それを自分の長所、いわば“偏差値60くらいの性格の良さ”だと思っていたのだろう。どんだけ拠り所のない人生なのかと、苦笑させられる内容だ。

そこから20年弱生きた今の僕から見ると、それはやはりあまりにも愚かで、その物言いや価値観の狭小さには、つい目を背けたくなってしまう。
今日は思い出話に見せかけて、当時の自分にもし伝えることが可能なら、面と向かって言ってやりたいことを記事にしたいと思う。
「嫌いな人」がいないことの本当の意味。

「嫌いな人がいない」のは、器が大きいことの証明ではない。それは、自分が何に傷つき、何に怒る人間なのかを全く理解していないというのを白状しているだけだ。
「何をされても怒りません。それが僕のアイデンティティです」などというのは、正直、虫が良すぎて、つまらないヤツである。
実際、それは自分を救ってもくれないし、支えてもくれない。評価してくれる人間もいないだろう。ただただ、自分の輪郭を曖昧にしているだけである。
では、そんなことを言っている、今の僕はどうなのか。正直に言えば、「この人間は本当に無理だ」と感じることが、昔より格段に増えたし、それを隠さなくもなった。
相手が顧客であろうが、仕事の関係者であろうが、嫌なものは嫌だ。契約などの関係を結んだ後だと、なぜもっと早い段階で見切れなかったのかと後悔することすらある。
今の僕は、自分に合わない人をコミュニティに入れてしまった際、はっきり「失敗だった」と思うようになった。選球眼の敗北、と言っても良い。
可能な範囲で、やんわりと排除しようと動くこともある。実際、”そうしたこと”もある。一度や二度の話ではない。平たく言えば、”護るため”の決断だ。
「この人は嫌いな人だ」というのを素直に認める。当時の僕が知れば、今の僕の方が劣っている印象を持つかもしれないが、少なくとも今の方がずっと楽しい。
「嫌いなものを嫌いとラベリングする」ことを覚え、そういう人たちと無理に分かり合おうとするのを諦めてから、人生は明らかにシンプルになったためだ。
相手に特別な配慮をしてまで付き合う必要はない。あなたを大事にしない人を大事にする理由はない、のである。
もちろん、最初から徹底的に嫌うのではなく、例えばその人の解釈を変える努力はしてもいいと思うが、それでもダメだと分かったら、そこで終わりにしていい。
そうしないとずるずると、「俺の器が小さいせいだ」という風に、自分にだけ非を負わせることになる。世の中はそんなに簡単じゃないのに、だ。
世の中には、生理的に不快に感じる人間が必ずいる。そして、その人たちに何も言えないことを「大人の強さ」や「器の大きさ」だと思い込んでいる人も多い。
だが実際には、それはただの回避であり、周りから好意的に評価されるようなものでもない。むしろ「都合よく我慢しているだけの人」として見られていることの方が多い。
これは少し厳しい言い方かもしれないが、20年近く生きてきた僕が、包み隠さず17歳の自分に伝えたいことでもある。お前は、全てが浅いのだ。
それにそもそも、嫌いである人にそう言えないということは、そういう存在に敵対しても、支援してくれると信じられる人を、周りに一人も持っていないということだ。
正直大問題なのは、その構図そのものであると僕は感じている。17歳の僕よ、お前はどう思う?ということで、今日はこの辺で。