僕はずっと、「35歳で講師としての区切りをつける」と言い続けてきた。そして今年が、まさにその年である。振り返れば、あっという間だったなと思う。
正直、その発言をなかったことにして、36歳も37歳も、何事もなかったかのように今の仕事を続けることはできる。誰から責められるわけでもないし、何の問題もない。

それでも、僕はやはり、35歳という年齢、年度を終えたとき、それは何かしらの”区切りにしたい”という、そこに関してだけは嘘をつきたくない。
それが今の僕の本心である。僕はやはり、それこそ40歳になった自分がバリバリで教壇に立つ姿は想像できないし、それがあるべき姿とも、どうしても思えない。
今日は自分の”これから訪れるであろう区切りのシーズン”について、現在地の思考をまとめておきたいと思う。
潜在意識は「なんか違う」としきりに告げている。

あと半年もすれば35歳という年齢になるのだが、現時点での自分が思い描く「これからの校舎の理想像」を考えたとき、どのルートだろうと思うことが1つある。
そこに「自分がバリバリ最前線で指導している姿」は、どうしても浮かんでこないというものだ。自分がプレイヤーとしてまだまだ脂が乗っているのは、想像もできない。
自分が現場のキャプテンとして引っ張り続ける姿は、もうあまりしっくり来ない。それが正直な感覚だ。(今も別にリードしているつもりはないのだが)
この2年ほど、その移行期間を想定してあれこれ自分なりに準備をしてきたのだが、やはり想定より大幅に遅れているし、やるべきことも大量にあることが分かった。
そうまでして幕引きがしたいとあらば、誤解を招くかもしれない。だから明言するが、僕は別にこの仕事が嫌いになったわけではない。授業も指導も、全然嫌いではない。
ただ、僕はそれ以上に、”中途半端が大嫌い”なのである。指導者として前に立つのか、経営者として全体を見るのか、そのどちらかを選びたいという気持ちが強い。
そして今のところの結論は、僕は経営者でありたい、ということだ。そのために講師を辞することになっても、そこに何の後悔も生まれないような予感がする。
ここから先は、まだまだ言語化が追い付いていないのだが、本当にときたま、僕の手が届く世界の幸福の総量を最大化する方法を考える。
何となく・・でしかないのだが、それを達成するには、僕自身がこれ以上授業にベットすることは不要だと感じている。
むしろ、周りの講師たちが楽しく、充実して授業に向かえる環境を整えることの方が、はるかに重要だと思っている。
そのためであれば、僕の授業が週にゼロになる生活になったとしても、正直まったく構わない。むしろ願ったりかなったりだと思っている。
このまま講師を続けることには、潜在意識のさらに奥底の、意識という光が届いていない部分から、「なんか、違うぞ」というメッセージが送られ続けている。
今のところは、それに従おうと素直に思えている。不思議と抵抗する気が湧かないのが、現在地なのだ。
”楽しさ”よりも”充実”を追いたい。

僕は昔から、”いつ”仕事を楽しいと思うか、その質問に答えることが苦手だ。正直言うと、その感情を求めて仕事をしている”わけではない”からだ。
いわば純粋な楽しさというのは、遊びで得るべきだと思っており、仕事を通じて、お金を貰いつつ、社会的責任も果たしながらそれを得るなど、虫が良すぎる気がする。
では、僕は何の感情が快くて、仕事をしているのか。白状すれば、楽しさなんかより、充実感の方が、僕にとっては圧倒的に大事だ。達成感と言ってもいい。
そして、どういうときに、その充実・達成感を覚えるのか。このタイミングは自分でも少し意外なのだが、それは「結果が出たとき」なのである。
もちろん生徒の成績も大切だが、それと同じか、あるいはそれ以上に、売上や数字の達成が強く刺さる。過去最高の講習売上を出したときの高揚感は、正直かなり大きい。
生徒の成果と、事業としての成果は必ずしも矛盾しない。前者を追えば、そのまま後者に繋がるだろう。逆もまたしかりである。
しかし、ガッツリ演習時間を取るような授業の合間に、ふと長期的な事業計画を考えている自分がいる。その都度、何の気なしにこう思ってしまう。
「自分は本当に、指導に時間を使うべきなのか?それとも、指導は誰かに任せて、売上や仕組みを作る側に徹するべきなのか?」
・・・この問いに、まだはっきりした答えは出ていない。なんなら何年も前から、堂々巡りをしている感覚もある。
それでも一つだけ確かなのは、「今のまま、僕が講師として最前線に立ち続けることが最適解だとは思えない」ということだ。それだけは、確信している。
・・・ということで今まで以上に全くまとまりのない独り言になってしまったが、これこそが今の僕の、正直な心情である。ということで、今日はこの辺で。