昔このブログかどこか忘れたが、「”幸せ”という言葉の使いどころが解らない」という厨二めいたことを書いた記憶がある。
これ自体は嘘でもカッコつけでもなく、シンプルに「美味しいものを食べたら”美味しい”」という風に、”幸せ”という言葉の使いどころが解らないという意味である。

今この気持ちを、感情を表現するには、”幸せ”以外にない!‥と思う場面を知らない。本当にそういうものだったのだ。
だが今日、そんな僕がずいぶんと久しぶりに、「あ、幸せ!!」と感じる出来事があった。しかしながらその理由が理由だけに、喜んでいいのか、結構悩んでいる。
以下何に対して思ったのか、ちょっと腹黒い僕の想いを、ここにつらつら書いていく次第である。
解放されたッッ!!

そのきっかけを端的に言うと、とある退塾の話だった。それ自体はむしろ「不幸せ」に他ならないのだが、カラクリは、退塾するご家庭の性質にある。
あまり率直に書くと歯止めが利かなくなりそうなのでぼかしつつだが、僕は正直、結構理不尽な要求・八つ当たりを、過去何度もここから食らっていたのだ。
講座を提案しても意地でも取らず、「高い」と嚙みついては過剰なまでのサービス・期待を要求し、それに応えられなければ烈火のごとく口汚く罵る。
最初の1・2回目は素直に耳を傾けていたが、3回目くらいから本当にめんどくさくなり、「早く止めてくれないかな」とばかり考えるようになってしまっていた。
こういうところほど却ってしつこいのは経験則からも解っていたが、そんなところから今日、今月末で終えたいという連絡が入ったのだ。
その通知が来たとき、それを読んで、思わず高揚した。ついに、この、七面倒なだけで何の生産性もない関係性から、解放されるのだ!!!!!!!!
「あぁ、幸せ!!!」と、心の底から、純粋に、歓喜とともに、そう思った。と同時に、こんなに嬉しいのはいつ以来だろうと、そんな風にしみじみと感じた。
今は断酒中だったのだが、これは祝さずにはいられない。帰りにイイ酒を買って、イイつまみも買って、それを記念した独りパーティーを催してやる!!
―それくらいこの、”解放”による喜びは、他のどの言葉でも言い尽くせぬほどの”幸せ”そのものであった。正直今も、その余韻に心がワクワクしているくらいである。
と同時に、僕が滅多なことで幸せを感じない理由も、何となくわかった。僕は獲得や経験で幸せは覚えない代わりに、切りたい縁が切れたときに、強くそう思うらしいのだ。
僕にとっては、自分を苛んできた”なにか”がきれいさっぱり終わったときこそ、幸せを感じられる、現時点では唯一の瞬間なのだ。
「あれがあればいいのに」が叶ったときではなく、「あれが無くなればいいのに」が叶ったときに感じられるものこそが幸福である。なんと生々しい話だろう。
自分の意外な腹黒さに驚くところもあるが、かといって僕は今、積極的に相手の不幸とかそういうのを望む気持ちも全くない。無に戻ることを素直に祝福したいだけだ。
そういう意味では、幸せをあまり感じないということは、同時に自分を苛む存在が人生において少数のまま維持できている、ということでもあるだろう。
僕にとっての幸福はまず、強い不幸・制限・苛立ち・憤りがマストになるからだ。だったらそもそも、幸せなんて別に感じない方が幸せじゃんか、と。
解放こそが僕にとっての幸福。これはすごく良いヒントになった。心配事を見つけ、それを消すことが、そのまま自分の人生の質を上げることになるのだから。
なんかまた、明日から楽しい日々が始まりそうである。では今日はこの辺で。