昨日書いた記事の続きみたいなものだが、やはりそこで言葉にした、「僕独自といってもいい幸福の定義」には、我ながらワクワクするものがある。
僕が、幸せとか幸福とかhappyの言わんとするところが腑に落ちていなかったのは、人が”獲得”に感じるそれを、僕は”解放”に感じるからだ、という仮説。

そう思うと、過去の思い出等についても、どんどん辻褄があっていくのがすごく興味深い。また新たなメガネを得て、よりクッキリと自分という内的世界を観ている気分だ。
となると、僕が普段から”幸せ”を頻繁に感じようと思ったら、大切なのは”何をするか”ではなく、”どう考えるか”ではないかと捉えている。
ということで今日は、せめて”幸せ”だと思う頻度が人並みになるよう、どう意識を変えていくべきかを簡単に試行錯誤する、そんな内容で記事を書いてみたいと思う。
「何を手に入れたか」ではなく、「何を消せたか」。

これに関して、具体例が一つある。それは受験の話だ。正直大学受験の方が何倍も労力を費やしたはずなのに、高校に受かったときの方が、はっきりと幸せを覚えたのだ。
これも先のモノサシを当てて考えると、納得感が強い。大学受験はいわば”こう在りたい未来”のために頑張って、それが報われたという意味では充実や安堵が勝った。
一方、僕が高校受験を頑張ったモチベーションは、公立に受からないと、僕が憎悪していたと言ってもいいくらい嫌いな奴とまた3年同じ学校になるという一点だ。
そんなのに耐えられるわけがない。そう思いながら頑張り、そんな糞みたいな未来が来ることへ恐怖しながら、無事合格を得たあの時は、本当に幸せだった。
あのとき僕は、高校の進学を手に入れたというより、クソみたいなやつとまた3年過ごすという最悪の未来を”消せた”のだ。だからこそ、幸せを感じたのだろう。
やはり過去の思い出を振り返ってみても、「嫌なモノ、面倒なこと、そういったものが僕の人生から消えたとき」に、僕は幸福を覚えるようだと、納得せざるを得ない。
日々の言動をそう翻訳すれば、僕は幸せなのか?

であれば、今のモノの見え方も、自然と変わる。僕は無意識に、例えば読書をするときも、「知りたいから」と思ってページをめくり、それが快い時間なのは認める。
つまり獲得が理由になっているのだが、それは陰陽と同じことで、すなわち何かからの解放にもなっていると感じるのだ。
本の例で言えば、「新しい知見を得ること」は、同時に「無知なままである自分からの解放」ともいえる。仰々しいが、都度全てをこう翻訳すると、どうなるだろう?
飯を食うことは空腹からの解放。さっさと寝ることは疲労状態からの解放。腸活に勤しむことは最近不調な胃腸への懸念からの解放。趣味は仕事からの解放。
―正直、何の違和感も引っかかりもなく、そう解釈した方が僕にとっては圧倒的に収まりがいいのを感じている。やはり幸せとは、得ることだけではないのだ。
今自分がやっていて快いものは、「何からの解放になっているのか?」と問い直すことで、僕自身の曖昧模糊としていた幸福像が遂に形になるような予感がしている。
かといって、では全てを手放して、鴨長明みたいな暮らしをしている自分を想像しても、それが別に幸福そのものという感じはしない。何事も中庸が大事なのだろう。
僕にとっての「快」とは、僕が何らかの理由で”消したい”と思っている物から自己を解放することだ。同じことを何度も書いているが、それくらい僕にとって新鮮なのだ。
では今日はこの辺で。