精神年齢9歳講師のブログ

日々を自由研究の如く生きたい。

本当に久しぶりに、「英検1級を取っててよかったな」って思った。

今日は、本当に久しぶりに「英検1級を取っててよかったな」と思える出来事があったので、そのことを書いておこうと思う。

 

もう7年ほど前になるが、僕は独学で英検1級に合格した。結果として、塾講師としての箔は、かなり上がったのではないかと、我ながら思っている。(正直、それが狙いだ)

 

ただ、そこから5〜6年ほど経ったあたりから、この資格を前面に出すことに、あまりメリットを感じなくなってきた


理由は単純で、僕自身が、学歴や肩書き、資格を並べて自分を売り込むスタンスを、あまり好まない人間だと気づいたからだ。

 

肩書きがずらりと並んだブログや、本の帯を見ると、正直、少し嫌な気持ちになる。「俺をこう見ろ」という感じが透けて見えて、なんか食傷のような感を覚える。


そんなことを思っている自分が、「英検1級」を前面に出しているのは明らかな自己矛盾でもあり、実際に後ろめたい感覚がどうしても拭えなくなってきたのだ。

 

そのため、最近は塾のホームページや個人ブログなどから、英検1級を持っていること自体を、ほとんど書かなくなってしまっている。

 

そして、もう一つ大きな理由がある。なんなら、こちらの方が切実だ。だがこれを冒頭に書くと記事がすごく頭でっかちになるので、ここからは項を変えて詳述する。

 

 

僕の箔こそが顧客を排除していると思えてしまった。

 

そのもう一つの理由とは、僕が主に相手にしている学力層を考えたとき、「英検1級保持者」を強く打ち出すと、むしろ避けられる可能性が高いと感じたからだ。

 

この箔ははっきりと、進学校の生徒、国公立大学志望の生徒に響くだろう。だがこれは、僕のような地方中小の個人塾には、トコトン相性が悪いと思っている。

 

周りには大手が乱立している手前、ガチで受験したいならウチの価格帯の個人塾でケチらず、もっと包括的なサービスを買った方が良いですと、本気で思っているほどだ。

 

それを頭で納得しているからこそ、頑張って取得した人には申し訳ないのだが、「取ってはみたが、あまり噛み合わなくなってきた」と感じていたのが正直なところだ。

 

―そんな状況だったのだが、最近、全く予想していなかった方向から、「やっぱり持っていてよかった」と思える出来事があった。

 

ということでここからが、いわば本題の話である。

 

安心して落とし穴に落ちれるじゃん!!

 

きっかけは、国公立大学の二次試験の英語問題を予習していたとき、ふと訪れた。(大体共通テストのボーダーが8割前後というレベルの学校だ)

 

僕は元々、共通テストやその予想問題を解いていると、「間違えてはいけない」という変な意識が働き、間違えると過剰に動揺してしまうきらいがあった。


情けなさや、ときには悔しさすら覚え、「1級を取ったのに、俺はなぜ間違えるんだろう」と、自分が嫌になる感覚もあった。何か嘘をついている気分にもなるほどだ。

 

大学二次試験になると、それは更に顕著になる。そもそも満点が現実的ではなく、最高得点が8割程度というケースも普通にある。そういう性質なのだ。

 

それでも、妙なプライドが邪魔をして、間違えた問題を直視するのが億劫になり、集中が切れる。我ながら、不健全だし、どこか狭量だな‥とは思っていた。

 

今日も演習を行いながらそんなことを感じていたのだが、その際ふと、こんな問いが頭に浮かんできた。「では一問も間違えない講師から、僕は教わりたいだろうか?」

 

答えは、即座に出た。絶対に嫌だと、心底思った。なぜなら、それは多分、嘘だからだ

 

仮に本当に間違えないとしても、どこかお高く止まっていて、こちらが間違えたら内心で見下されそうな感じがする。


そもそも「全部合っている」などということは、検証のしようがない。そんなステータスで自分を飾ろうとする姿勢そのものが、僕は好きではない

 

そこまで考えたとき、ブーメランみたいな”あること”に、ハッと気づいた。自分は今、そういう「嫌なやつ」になりかけている。この気づきは、かなり大きかった

 

「問題を間違えたら信用を失うのではないか」という不安を突き詰めると、僕はそういう「嫌な講師」になるということ。この構造が、完全に盲点だったのだ。

 

そしてこのとき、「そういえば!」という具体的なエピソードを思い出した。それは、自分が予習していて、間違えた問題を、素直に生徒にそう告げた後のことだ。

 

「先生ができないなら、その問題どんだけヤバいんですか?と言われたのだ。そこには、僕の力量を心配する声は、微塵も感じられなかった。

 

それを思い出したとき、少し意外に感じたと同時に、そこに気づけていなかった自分にも、正直、呆れた。

 

そうか。仮に問題を間違えたとしても、自分が積み上げてきた“箔”が堅牢なバリケードになってくれて、評価が一気に崩れることはそうそう起きないのだ。

 

これを悟れて、僕はかなり安心した。健全な資格の使い方かと言われると、正直違うのかもしれない。だが、僕にとっては、この捉え方が一番しっくりきた

 

「ここはこういう引っかけがある」「こういうミスをするから気をつけろ」と、自分の失敗を含めて伝えても、信頼を損なわずに受け取ってもらえる。

 

そう考えると、あの頃、血反吐を吐くように勉強した時間も、ちゃんと意味があったのだなと思える。時間差ではあるが、今は「取ってよかった」と、素直に思っている。

 

ということで、今日はこの辺で。

 

 

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