リーダーの在り方について、最近また、自分の中で振り出しに戻りつつある。そもそも論、リーダーは積極的にいた方がいいのか、それとも裏方にいた方がいいのか、だ。
例えば野球で言うリーダーは、キャプテンなのか監督なのかを考えるのに似ている。それは一人ずつの価値観に根差すのではないか、つまり共通解は無いのではないかと。

何故そう思うかというと、最近僕の周りにおいて、「船頭多くして船山に上る」という状態が常態化してしまっているからだ。(もしかしたらもう少し深刻かもしれない)
あるコンテンツの作成を依頼される。だから考える。自主性を重視すると言われたので、こちらの思うように、売りたいように、練り上げる。
すると当然、問題点は出る。だから直す。それに対して意見が出る。それ自体もまだ、プロセスとして何一つ違和感はない。問題はそれが堂々巡りしていることだ。
Aという課題が出たからBという解決策を考案し、そこにある穴を鑑みてCという代替案を出したところ、ではAが良いのでは、となり、同じ問題だからBを‥というループ。
一時僕がそれを取り仕切ろうとしてみたが、公的な人員配置でもなんでもないのですぐにうやむやになり、みんなで考えよう、結局決まらない、がずっと続く。
更に上の人からすれば体たらくなのは現場で働く僕らの方であり、思慮が足りないからコメントもできない、ということらしい。そろそろ軋轢が亀裂に変わりそうな段階だ。
こういう事例に当事者で関わっているからこそ、思う。リーダーはいた方がいいのか、いない方がいいのか。答えなんてあるのかわからないが、今日はそれを考えてみたい。
”任せて伸ばす”タイプの人達は、最初からそうだったのか?
ビジネス書などを通じて、僕が好きな社長は勿論、その方々が尊敬したり親しくしたりしている経営者・起業家の方々の仕事論などにも、よく触れている。
すると世相を反映してか、「リーダーはあまり口を出さず、スタッフが自由にのびのびやれる環境を大事にしている」という方がとても多いように感じた。(逆もあるが)
だから「任せて伸ばす」というプロセスは、なるほど大切だ‥という風に帰結できるが、果たしてそれはそこまで、シンプルなことなのだろうか。
今の到達点から見ればそうなのであって、例えばその方々がもっと若かった頃や、企業としての黎明期だった頃も、同じことを言っていたのか、さらに調べたこともある。
すると、そういう基盤自体が不安定な頃や、その方々が社長として駆け出しだった頃は、むしろ積極的に前面に立ち、その人がガンガン回していることが多かった。
最初から任せていたというより、一人で持ちきれないほど組織が強く・大きくなった結果、誰かに依頼する必要が出て、その際にそれが大事と気づいた、という構図だ。
一人でもガンガン回せるという状態のときに、自分の手を緩めて、利益・売り上げを損なってでも、人に任せて成長を見守るなんて、よく考えたらよっぽど非合理的だ。
「お前が死んだら組織が‥」といった反論はあるだろうが、情熱や熱狂によって突き動かされる人たちは、自分の寿命・天命なんていちいち考えて動かないだろう。
となると、段々リーダー論自体をどう咀嚼するか、その観点自体も僕の中で変わってきた。はっきり言うと、僕はまだ、組織論云々を考える段階”ではない”のだ。
むしろもっと前面に立ち、泥を被りまくることも上等だと鼻息荒く、ガンガン人を集め、ガンガン授業をして、自分で抱えきれないほど強い組織にすることが先決だ。
そう思えば、そういったゴタゴタがあった際に僕が正直思うのは、”如何にして巻き込まれないか”ということと、”振られたら如何に早く70点の案を出して躱すか”だ。
あまり詳しく書けないが、これには苦い記憶も絡んでいる。先のケースについて、僕が一瞬それを取り仕切り、もう少しで合意まで行けるという段階に実は至っていたのだ。
だがその翌日くらいに、現場の仕事がバタバタで1日くらいLINEをまともに読んだり返したりする暇さえなくなっていたときに、その出来事は起きた。
別の人が呈した疑問に賛同する形で、それが振り出しに戻り、勝手に議論が進み、僕が固めてきたものが結局元の木阿弥という状態になっていたのだ。
それが議題になった会議は、案の定紛糾した。実は僕がここ最近強く独立を意識し始めたトリガーこそ、このあまりにも不毛なやり取りに巻き込まれたことなのである。
このことを思い出すと、すぐに食傷気味のようなしんどさを想起する。それくらいこれは堪えた。せめて僕一人に背負わせてほしかったと思う。
リーダーはいた方がいいのか、いない方がいいのか。今思えば、それは組織の規模や状態によるってことだよなと、そんな当たり前のことを思っている。
では今日はこの辺で。