今日は、前回の記事を踏まえて、その続きを書こうと思う。すごくしょうもない問いの始まりではあったが、その辿り着きそうなところは、想像以上に深そうだからだ。
件の記事では、「元々あった組織やコミュニティで、肩書を得て上に行く形」について、あまり魅力を感じない、という話を書いた。
そしてその印象は、一晩経った今でも、まったく変わっていない。あのときの自分の直感が間違っていたとは、一ミリも思わないのだ。
細かいうえに意味不明な話だが、僕はやはり社長よりもボスと呼ばれたいし、責任者よりも大将と呼ばれたい。それは純粋に僕の価値観に根差している。
てことで以下、色々被る内容もあるのだが、”僕の理想的なコミュニティ像”がよりクッキリした感覚を忘れぬよう、記事にまとめておこうと思う。
”勝手に”醸成される何かでありたい。
そんなカリスマ性など微塵も持ち合わせていないことは承知の上で書くと、僕は自然発生的に、いつの間にか勝手に自分の周りに人が集まる、そんな構図がやはり好きだ。
「この人といると楽しい」「この人といると落ち着く」「この人の作品を読んでいると、強い共感を覚える」‥といった快の感情が、側にいる理由になっているグループ。
まず、それができること。そして気づけば、その中だけで通じる共通言語や文化ができ、その一形態として、「呼び方・呼ばれ方」が生まれていくような形。
僕がファンコミュニティについて考えていることや、これまで書いてきた価値観を整理していくと、結局そこに行き着く。
最初からグループを創るぞ!と思ってメンバーを募るのではなく、いつの間にか集まっていた面々が、いつの間にかグループになっている。なんと心躍る話だろうか。
実際、そういう組織は数多存在する。では、その中心にいる人に、何か共通点はあるのか。再現性があるかどうかはわからないが、調べてみると、気づいたことがある。
良くも悪くも、周囲の道徳や社会通念を気にしすぎず、自分なりのスタイルや思想を貫き、ある意味で“過剰なくらい”外に放ち続けている人。善悪を超越した魅力。
そういう人でなければ、自然にコミュニティが生まれることはないのだろう。そこに社会的なブランドはあまり関係ない。東大卒でも、人望に乏しい人はいるように。
日頃からそうした姿勢を貫く人の周りには、いつの間にか人が集まり、共通言語が生まれ、独特の関係性が築かれていく。僕の理想も、きっとそうなのだとやはり思う。
・・・最近になって、これまで自分の中でバラバラだった考えや感覚が、少しずつ一本の線としてつながり始めているような気がしている。
全然別々だと思っていた”好きなもの、カッコいいもの”に、通底する何かがあった。それがもしはっきり認識できたら、そのときはどんなに興奮することだろう。
まだはっきり言語化できているわけではないが、「これが俺の哲学の根っこだろう」という予感だけは、確かにある。
だから今年は、自分の「色」というものを、できるだけ躊躇わず、脚色もせず、行動や発言として外に出していく一年にしたいと思っている。
そして、その結果として、本当に自分の周りにコミュニティが生まれるのかどうか。僕の器を試される一年になるのだろう、という覚悟もしている。休日など要らないのだ。
去年も年間休日は30日程度と、結果的に似たような状況にはなっていたが、あれは半分以上、不可抗力のようなものだった。
今年はそうではなく、自分の意思として、自分の必要性に基づいて、あえてそうしていく一年にしたい。その先に在るのがユートピアなら、願ったり叶ったりなのだ。
そんなことを考えながら、今日はこの辺で終わりにしようと思う。